鷺  娘
宝暦十二年(1762)四月

作曲 冨士田吉治 杵屋忠次郎
[鼓唄]〈三下り〉
妄執の雲晴れやらぬ朧夜の 恋に迷ひしわが心 忍山 口舌の種の恋風が 吹けども傘に雪もつて 
積もる思ひは泡雪と 消えて果敢なき恋路とや 思ひ重なる胸の闇 せめて哀れと夕暮に 
ちらちら雪に濡鷺の しょんぼりと可愛らし 
迷ふ心の細流れ ちょろちょろ水の一筋に 怨みの外は白鷺の 水に馴れたる足どりも 
濡れて雫と消ゆるもの われは涙に乾く間も 袖干しあへぬ月影に 忍ぶその夜の話を捨てて 
縁を結ぶの神さんに 取り上げられし嬉しさも 余る色香の恥かしや 
須磨の浦辺で潮汲むよりも 君の心は汲みにくい さりとは 実に誠と思はんせ 
繻子の袴の襞とるよりも 主の心が取りにくい さりとは 実に誠と思はんせ 
しやほんにえ 白鷺の 羽風に雪の散りて 花の散りしく 景色と見れど 
あたら眺の雪ぞ散りなん 雪ぞ散りなん 憎からぬ 
[鼓唄]

恋に心も移ろひし 花の吹雪の散りかかり 払ふも惜しき袖笠や 傘をや 傘をさすならば 
てんてんてんてん日照傘 それえそれえ さしかけて いざさらば 花見にごんせ吉野山 
それえそれえ 匂ひ桜の花笠 縁と月日を廻りくるくる 車がさ それそれそれさうぢゃえ 
それが浮名の端となる 添ふも添はれず剰へ 邪慳の刃に先立ちて 此世からさへ剣の山 
一じゅのうちに恐ろしや 地獄の有様悉く 罪を糺して閻王の 鉄杖正にありありと 
等活畜生 衆生地獄 或は叫喚大叫喚 修羅の太鼓は隙もなく 獄卒四方に群りて 
鉄杖振り上げくろがねの 牙噛み鳴らしぼっ立てぼっ立て 二六時中がその間 くるり くるり 
追ひ廻り追ひ廻り 遂に此身はひしひしひし 憐みたまへ我が憂身 語るも涙なりけらし

(歌詞は文化譜により、表記を一部改めた)

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歌舞伎の所作事、日本舞踊として高い人気を誇る作品です。
水辺に現れた、白無垢の振袖に白の綿帽子を被った娘は、冷たい川の中に一羽たたずむ白鷺なのでしょうか。
衣装の引き抜きで華やかな友禅模様の町娘に変わり、楽しい恋の思い出を踊りますが、
やがて再び白鷺のかたちになり、地獄の責め苦に狂って、凄惨な終わりを迎えます。
鷺娘については、明治以降さまざまな解釈がされています。
その正体は鷺の化身なのか、娘が身をやつした姿なのか。
最後は息絶えて地獄に落ちるのか、生きたまま地獄のような悲しみにさまようのか。
歌詞に限定して検討してみても、あるいは曲や舞踊を合せて考えても、明快な答えは出せませんでした。
人が一生かかっても恋というものの正体をつかめないように、
鷺娘の正体をつきとめることは難しく、そして、正体を追求することは無意味なのかもしれません。
唄い手、踊り手、そして観客ひとりひとりが、自由に解釈して良いのだと思います。
恋が恋のままでいられる時間は、実はとても短いものです。
成就しない恋心はいつしか消え去り、成就した恋は愛や欲や絆に変わっていきます。
「鷺娘」は、そのどちらにもなれなかった恋が恋のままで迎えた、残酷で美しい末路なのだと思います。



【こんなカンジで読んでみました】

こんなに寒い冬の夜なのに、月がおぼろに霞んで見えない。春みたい。
私が何にも見えなくなっちゃってるからかな。あの春の日のことばっか考えてるからかな。
……


■「鷺娘」の解説・現代語訳・語句注釈のつづきは、

『長唄の世界へようこそ 読んで味わう、長唄入門』(細谷朋子著、春風社刊)

に収録されています。
詳しくは【長唄メモ】トップページをご覧ください。


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