巽 八 景
天保九年(1838)
作詞 二代目 烏亭(立川)焉馬
作曲 十代目 杵屋六左衛門
〈三下り〉 
大江戸と ならぬ昔の武蔵野の 尾花や招きよせたりし 恋と情の深川や 
縁もながき永代の 帰帆はいきな送り船 
その爪弾の糸による 情に身さへ入相の きぬぎぬならぬ山鐘も 
ごんとつくだの辻占に 燃る炎の篝火や 
せめて恨みて玉章を 薄墨に書く雁の文字 
女子の念も通し矢の 届いて今は張り弱く 
いつか二人が仲町に しっぽり濡るる〔心をひかれ〕 夜の雨 
堅い石場の約束に 話は積もる雪の肌〔雪の暮〕 
とけて嬉しい胸の雲 吹き払ふたる晴嵐は しんき新地ぢゃ ないかいな 
洲崎の浦の波越さじと 誓ひしことも有明の 
月の桂の 男気は 定めかねたる 秋の空 
だまされたさの真実に 見おろされたる櫓下 
疑ひ晴れし夕化粧 目元に照らす紅の花 幾世契らん諸白髪 
浮名たつみの八景と その一と節を立川の 流れを筆に残しける

(歌詞は文化譜に従い、表記を一部改めた)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

子丑寅卯……の干支。現在では年賀状を書くときくらいしか話題にのぼりませんが、
江戸時代まではさまざまな場面で、人々の生活に根ざした身近なものでした。
例えば時刻。近世には、一日を12分割し、これに干支をあてはめて時を表しました。
午(うま)の時間は今で言う11時から13時。これは「午前」「午後」という言い方で現在に残っています。
それから方角。四方を12分割し、北を子として時計回りに干支をあてはめます。
すると、東と南の間、東南の位置に来るのが辰と巳。
このことから、東南の方角、さらに江戸城から見て東南の方角にある深川のことを、
通称辰巳(巽)と呼ぶようになったのです。

本曲「巽八景」は、江戸時代、参詣地、遊興地、さらには歓楽街として栄えた深川の情景を唄った曲です。
「八景」とは八つのすぐれた眺めのこと。
中国で描かれた「瀟湘八景図」を最初とし、日本に伝わってからは、各地で八景を選ぶことが流行しました。
本曲の詞章には、当時「深川七場所」と呼ばれた岡場所を中心に選ばれた八景が歌い込まれています。
また、帰帆や晩鐘など「瀟湘八景図」と同じ情景をうまく織り込んでいるだけではなく、
「雪の肌」「夕化粧」など、言葉による見立てを巧みに使っているころが秀逸です。
本曲に登場する八つの眺めには、そのすべてに女の人の面影が描かれています。
それはどれも断片的で、ほんの一瞬の表情がちらりとのぞくだけ。
誰なのか分からないまま唄は進み、すぐ次の情景に移ってしまいます。
場面が変わるごとに姿はくるくると変わり、ただ直線的につなげたのでは背景にある物語が読み取れません。
ストーリーを大幅に補って一人の女の恋物語を紡ぐも良し、
また、八景すべてを異なる女性、八人の横顔と読んでも良し。
受け取る私たちに想像する楽しみを残しつつ、
女性という存在の愛しさ、かわいらしさを余すことなく表現しているのが、本曲の魅力だと思います。

さて、江戸時代後期の深川は、吉原と人気を二分するほどに栄えた花街でした。
人気の秘密は、吉原の太夫を凌ぐほどの「張りと意気地」。
洒落本『古契三娼』の中で、深川の遊女であったお仲さんが、次のように深川を自慢します。
「深川といふ所は、客人の遊びにでへぶ塩梅のある所さ。
色男に代えても金に代えても、子ども同士のたてひきをおもにする所さ」。
深川というところは、お客が遊ぶにも一筋縄ではいかないところ。
どんな男前に口説かれても大金を積まれても、女同士のプライドをかけた意地の張り合いは譲れない、
それが深川というところさ――
漁師や木場の職人をお客とし、自前=フリーで生きることが可能であったからこそ培われた芯の強さは、
土地ならではの魅力として江戸の人に愛されました。
また、豪華絢爛、まばゆいほどに飾り立てた吉原の太夫とは対照的に、
素顔の美しさを誇って白粉もつけず、地味なねずみ色や縞模様の着物をすっきりと着こなす装いも、
「粋」として好まれたようです。
本曲成立からさかのぼること数年、深川芸者の恋物語を描いた為永春水の人情本『春色梅児誉美』が
ベストセラーになり、深川の人気はさらに高まりました。
ところが、本曲成立からわずか2年後、水野忠邦による天保の改革によって岡場所はすべて取り払いとなり、
深川の隆盛は終わりを迎えます。
本曲は、深川がもっとも栄えていた頃の様子を写し取った曲でもあるのです。



【こんなカンジで読んでみました】

この町が大江戸と呼ばれるずっと前、いにしえの武蔵野に揺れていたススキの花が、
私を招きよせたのだろうか……
なんて、気取るには及ばない。尾花屋で座敷を重ねたあの妓の手招きに引き寄せられたんだろ?
それでいいのさ。ここは深川、いくつもの恋、深い情けが散らばるところ。
この町の八景を選ぶなら、帰帆の眺めは永代橋の送り船で決まりだろう。
船で聴く佃節こそ粋ってもんだ、深川の女は芸がなくっちゃはじまらない。
つまびく三味線の糸が結んだかよわい恋に、ずいぶん夢中になるもんだ。
富岡八幡の鐘と言えば別れの朝の合図だが、想う男が来るんじゃないかと、お前は暮れの鐘を待つ風情。
おや、辻占には「来ん」と出たかい。
佃の漁師のかがり火じゃなし、そんなに怒ったって仕方がなかろう。
恨みの手紙を薄墨紙にしたためて雁の使いとは、とんだ佃の落雁だ。
そうかと思えば、通し矢さながらのまっすぐな想いが男に届き、首尾良い返事をもらったら、
張りと意気地の辰巳女がどうしたことだい、もじもじそわそわ、すっかりしおらしくなっちまった。
門前仲町に夜が来た。雨だ。いつの間にか二人の仲もうるんで濡れて、何も聞こえなくなった。
暮れなずむ石場の闇で、雪のように積もる話は、白い素肌を寄せたまま、
二人にしか聞こえないささやきで交わすがいいさ。
良かったじゃないか。
胸のつかえを吹き払った潮風を、新地の晴嵐と見立てるのはどうだ。
それでもなお、女の身は辛気だと嘆くのかい。辻占に男に振り回されて、ほんとに女はやっかいなもんだね。
洲崎弁天には津波除けの碑が建つが、古い和歌で「浪越さじ」と言えば、心変わりはしないという恋の誓いだ。
誓ったことがあると言って、桂男とみまごうばかりの色男じゃあ、移り気なのも無理はない。
有明の月は明るい。でも、秋の空は変わりやすい。
信じたいのに、信じきれないのか。
いっそ騙してくれたらいいと思う、うつむく女の細い背中を、
この町のすべてを見てきた火の見櫓は、ただ黙って見下ろしている。
信じると決めたのなら、宵を楽しみに化粧をしたらいい。
ほのめく紅を目元にしのばせ、涙の跡など消せばいい。
そうだ、綺麗だ、水にきらめく夕日のようだよ。櫓下の夕照とはお前のその笑顔のことだ。
泣いたぶんだけ綺麗になって、想う男と年を重ねていけばいい。それでこそ、辰巳の女さ。
いくつもの恋と深い情けが、深川の町のそこかしこ、今日も聞こえる誰かの浮名。
八つの景色にこっそり隠して、堅川の流れとともに、私がここに書き留めておこうよ。



【八景】

「八景」は、八つの景色を一組とする画題。また、八つの名所のこと。
中国・北宋時代、文人画家の宋迪が、洞庭湖を望む八景台に描いた「瀟湘八景図」と題する絵を最初とする。
八つの画題は、それぞれ「場所+景物」によって構成されている。
場所のうち「瀟湘」と「洞庭」は具体的な地名であるが、
それ以外は「どんな場所か」を行っているだけで、地名を限定しているわけではない。
例えば「平沙落雁」の「平沙」は「広々とした砂原、干潟」という場所を表す。
「瀟湘八景図」に描かれる八つの景物は、次の通り(なお解釈の細部には諸説ある)。

山市晴嵐(さんしせいらん)
 山間にある集落に、山気が立ちのぼっている情景。
 「嵐」は山気の意で、「晴嵐」は晴れた日に立ちのぼる山気。晴れた日の霞。

漁村夕照(ぎょそんせきしょう)
 漁村の湖水に夕日が照り返す情景。「夕照」は夕日の輝き、夕焼け。

煙寺晩鐘(えんじばんしょう)
 夕刻、靄に包まれた寺の入相の鐘が響く情景。「晩鐘」は入相の鐘の音、暮の鐘。

瀟湘夜雨(しょうしょうやう)
 瀟湘(湖水)の上に夜の雨がさびしく降る情景。「夜雨」は夜、雨がもの寂しく降るさま。

遠浦帰帆(おんぽきはん)
 夕方、遠くで漁をしていた帆船が帰ってくる情景。「帰帆」は帆掛け船が夕方港へ帰ってくるさま。

洞庭秋月(どうていしゅうげつ)
 洞庭湖の上に秋の月が冴えわたる情景。「秋月」は秋の夜の澄み渡った月。

平沙落雁(へいさらくがん)
 広々とした干潟に雁が舞い降りてくる情景。「落雁」は雁が、夜間眠るために空から下りてくるさま。

江天暮雪(こうてんぼせつ)
 日暮れの川に、天から雪が舞い降る情景。「暮雪」は暮方に降る雪。また、夕暮れの雪の眺め。

「瀟湘八景図」は鎌倉時代末期に五山僧を通じて渡来し、
以降日本でも、各地の風景にあてはめた独自の八景が選定されるようになった。
「近江八景」(長唄メモ「藤娘」参照)や「金沢八景」などがその代表的なものである。
日本で選定される八景は、「具体的な地名+景物」が組み合わされることがほとんどで、
結果的に名所選定の性格を持つものになった。
景物についても、「瀟湘八景図」に描かれた「夕照」「晩鐘」などの八つをそのまま踏襲したもののほか、
松・桜・蛍などを用いて独自の景物を選定したものもある。
また、景物を含まず、地名だけを八つ(あるいは八つ以上)選定したものなど、多様に発展した。
八景の選定は近世以降特に盛んになり、
江戸時代には貞享・元禄頃(1684~1704)と文化・文政期から幕末頃(1804~)の二つのピークがあったという(有澤晶子「日本における見立ての表象としての八景」)。
八景は、大名家の庭園のモチーフに用いられたり、浄瑠璃や歌舞伎舞踊の趣向として取り入れられたりして、
階級を問わず人々に広く親しまれた。
明治・大正時代に入っても、八景の人気は衰えることなく、むしろ盛んに行われた。
これは、印刷技術の発達や鉄道など交通網の発達によってもたらされた、
絵はがきの流行や観光旅行の増大などの文化現象を背景にするものと指摘されている
(石立裕子・綿抜豊昭「日本で選定された「八景」の景物について」)。
現在でも、観光資源の発掘・環境保護等を目的とする八景の選定は行われており、
八景は日本全国、47都道府県のすべてに存在する。
本曲「巽八景」では、
辰巳(深川)の地名と「瀟湘八景図」由来の景物、あるいはそれを連想させる語句を組み合わせて、
次の八つの風景を想起させている。
永代の帰帆・八幡の晩鐘・佃の落雁 ・仲町の夜雨・石場の暮雪・新地の晴嵐・洲崎の秋月・櫓下の夕照
深川における八景は固定化されたものではなく、
例えば荻江節「深川八景」には、異なる地名と景物を組み合わせた八景が描かれている。
また、本曲成立以前にも『伊達姿辰巳八景』(文政十一年〔1828〕刊)が刊行されており、
本曲が深川における八景の最初というわけではない。



【深川の発展と遊里文化】

〈発展 物流の拠点として・歓楽街として〉

深川は、現在の江東区西北部の地域。
江戸時代には、おおむね西が隅田川、東が十間(現横十間川)、北が堅川、南が海で囲まれた範囲を指した。
元は海浜地帯であった深川の町としての誕生は、天正十八年(1590)徳川家康が江戸へ入府した頃、
小名木川が開削されたことから始まる。
小名木川は隅田川と中川を結ぶ運河で、行徳の塩を江戸に運ぶための水路として作られた。
さらに慶長頃、海浜の地を深川八郎右衛門が開拓して深川村が成立。
船大工や船頭・船員など、廻船業に携わる人々が住む町として発達した。
海運で運ばれた物資が集まる隅田川河口に位置し、
その対岸が、大店のひしめく日本橋・京橋であるという立地から、深川は江戸の商品流通を支える
倉庫街に発展した。
大店の蔵が立ち並び、大店の支店ができ、後には深川に本店を移転する店も現れるようになった。
もう一つ、〔江戸の倉庫〕という深川の性格をさらに強めたのが、市中からの材木置き場の移転である。
寛永の大火の際、市内に高積みされた材木が延焼拡大の一因となったことを受け、
材木問屋の材木置き場が隅田川沿岸へ移転された。
これが後の木場になり、深川は材木取引の中心地としても反映した。
また、市中から多くの寺社が移転して寺町が形成されたことにより、
深川は寺社仏閣への参詣に加え、海をのぞむ景観が楽しめる一大行楽地となり、
高級料亭や飲食店、岡場所が林立する歓楽街としても発展した。
岡場所とは、吉原のような公許(公営)の遊廓に対して、私娼が集まる場を言う。
特に寛政の改革以降、格式の高い吉原の遊びより、気楽な岡場所の人気が高まり、
深川の岡場所は吉原を凌ぐほどの人気を誇った。
天保七年に執筆・刊行された『江戸繁昌記』五篇「深川」は、当時の深川の繁盛の様を次のようにつづる
(〔 〕内は本稿筆者による注。また読みやすさを考え、表記を改めた)。
  深川の繁昌、狭斜〔=花街〕を最と為す。土橋といひ、中町といひ、新地といひ、石場といひ、
  櫓下、裳継(すそつぎ)、鶩坊(あひる)を併せて、凡そ七所。(中略)
  妓院〔=妓楼〕の数に至っては、知らず、幾千戸に上るを。
ここに地名を挙げられる土橋・門前仲町・新地・石場・櫓下・裾継・佃(アヒルは佃の俗称)が、
俗に「深川七場所」と呼ばれた岡場所で、盛りの中心となった
(新地は大新地・小新地、石場は古石場・新石場、櫓下は表櫓・裏櫓にそれぞれ分けられる)。
深川の岡場所では、遊女のことを「子供(こども)」と呼び、子供を抱える置屋を「子供屋」と称する。
また、料理茶屋が色茶屋を兼ね、二階の裏座敷で女性と遊んだ。
茶屋が抱える子供を「伏玉(ふせだま)」、置屋に所属して座敷がかかると茶屋へ赴く子供を「呼出」と呼ぶ。
他に、「出居衆(でいしゅう)」と呼ばれる自前、つまりフリーの遊女もいた。
この自前という文化が、意気張りの強さ、意に染まないことにはなびかない「粋」を育む土壌となった。
吉原の女性と深川の女性の違いは、次のように述べられることが多い。
  吉原は則ち色を重しと為す。威厳を貴しと為す。
  繍衣画裳(しゅういがしょう、色鮮やかな衣装のこと)、粧色濃からんと欲す。
  深川は則ち芸を重しと為す。洒落を貴しと為す。
  浅脂薄粉(せんしはくふん、化粧の薄いこと)、飾様淡からんと欲す。(『江戸繁昌記』)
  
  吉原は万事風俗淳(あつ)く、俗に云ふ野暮なるゆゑに、天保〔=天保の改革〕以前、
  当世風の客は深川をよしとするなり。深川は華奢にて、俗に云ふ粋なる習風」(『守貞漫稿』)
吉原では、絢爛豪華に着飾り、美しく化粧を施した遊女の細やかな情、手厚いもてなしが好まれたのに対し、
深川では素顔で素人風のすっきりした装いが好まれ、
女性の気風も強い意志を持った「張りと意気地」が粋であるとされた。
羽織を着用し、男名を名乗り、三味線箱を持たせた供男を連れて町を歩く羽織芸者は、
張りと意気地を誇る深川女の代表として愛された。
  昔は此土地にて娘の子を男に仕立て、羽織をきせて出しゆへ羽織芸者といふ也。
  それゆへ名も甚助・千代吉・鶴次などゝ云なり。(『深川大全』)
吉原では、色を売る遊女と芸を売る芸妓の間には厳然たる区別があり、遊女が芸妓の上位にあたる。
一方深川では、芸者が遊女と芸妓の二枚証文でつとめることも多く、
芸者が色を売ることも認められていた。また、芸妓が遊女の上に位置づけられた。
  芸者、色とて客を数多もってゐる故、妓(こども、売春をする女性のこと)も同じやうなり。
  また客に抱の芸者あり。これは囲い者同様なるもの也。(『深川大全』)
岡場所は私娼地であるため、しばしば幕府からの取り締まりを受け、岡場所の遊女は「奴女郎」として
強制的に吉原遊廓へ鞍替えさせられることがあった。
深川の遊女は、その張りの強さをもって吉原でも出世したことが次の文に伝わる。
  吉原でも、今は通り名をついてたいそうにして居る女郎衆が、みんな子どもさ。(『古契三娼』)
深川七場所のうち、土橋は寛政の改革時に、ほか六ヶ所はすべて天保の改革時に取り払いとされている。
天保の改革後、深川のこども・芸妓は柳橋へ住み替えとなり、
「張りと意気地」の気風は柳橋芸者へと継承されていった。
(柳橋については『長唄の世界へようこそ』所収「岸の柳」解説を参照)


〈長唄「巽八景」に登場する深川の地名〉 ☆は深川七場所

永代橋
 中央区荒川と江東区深川を結んで、隅田川にかかる橋。隅田川で最も下流に位置する。
 満潮時でも多数の船が通過できるよう、橋げたが高く、当時としては国内最大規模の橋。
 永代橋が元禄十一年(1698)に架橋されたことによって深川は加速的に発展し、江戸府内に編入された。
 元禄十五年(1702)の赤穂浪士の討ち入り事件では、討ち入り後、浪士たちが上野介の首を掲げ、
 吉良邸のあった両国から永代橋を渡って泉岳寺へ向ったと伝えられる。
 また文化四年(1807)、荒天のため順延されていた富岡八幡宮の祭礼が8月19日に行われた折、
 殺到した見物客の重みで落橋したことが知られる。

富ヶ岡八幡宮・永代寺
 富岡八幡宮は現江東区にある八幡神社で、「深川八幡」とも称される。
 現在は「とみおか」と読むが、江戸時代には「とみがおか」とも呼ばれた。
 寛永年間(1624~44)の創建で、同十三年に大規模な社殿を建立、江戸府内随一の大社として栄えた。
 永代寺は富岡八幡宮の別当寺(神社管理のために置かれた寺)。真言宗。
 俗に「山」と呼ばれ、海を臨む立地から遊山の客でにぎわったほか、
 庭が一般に公開される春の弘法大師御影供は、「山開き」として多くの参詣客を集めた。


 川を挟んで、永代寺門前町の南の対岸に位置する町屋。
 月島に隣接する、現在の中央区佃(佃島)とは別の地。
 佃町とも称し、佃の岡場所は海に面しているため「海」とも、また俗称として「アヒル」とも呼ばれた。


三十三間堂
 元禄十一年(1698)の火災により類焼した浅草の三十三間堂が深川に移転、同十四年に再建されたもの。
 「深川三十三間堂」とも称される。
 縁を利用して通し矢が行われ、歌川広重『名所江戸百景』に取り上げられるほどの賑わいを見せたが、
 明治五年(1872)に廃止された。

仲町(門前仲町) ☆
 寛永四年(1627)、永代寺創建とともに幕府から与えられた拝領地。
 現在言う「門前仲町」は永代寺の門前町を広く指しているが、
 江戸時代の町名としては永代寺門前から西方に広がる地区を指し、東側は「永代寺門前東仲町」。
 門前山本町と接する堀の堀留に、火の見櫓が立つ(〔櫓下〕参照)。
 べっ甲屋、菓子屋、煙草屋、酒屋の他、多くの料理茶屋などが立ち並び、栄えた。

石場 ☆
 越中島の一部で、万治頃に幕府の石置き場があった場所。
 古石場と新石場に分かれ、ともに岡場所として繁昌した。

新地 ☆
 築出新地とも。隅田川河口東岸の町屋で、南は海に接する。

洲崎(洲崎神社)
 元禄十三年(1700)、将軍徳川綱吉が、母桂昌院の守本尊の弁財天を安置するために建立。
 明治以前は洲崎弁天社と呼ばれた。
 海岸沿いに位置し、風光明媚なことで知られ、参詣客や潮干狩りの客でにぎわった。
 寛政三年(1791)の津波により、当地周辺に多数の死者・行方不明者があったことから、
 境内には波除碑(津波警告・居住禁止を知らせる碑)が残る。

櫓下 ☆
 永代寺門前山本町の、町内表通り北側の三十間(約55m)ほどの場所。
 隣の門前仲町に立つ火の見櫓の脇にあたるため、櫓下あるいは表櫓と呼ばれた。
 さらに表櫓の横町を裏櫓、それに続く辺りを裾継(すそつぎ)と称し、
 文化文政頃には岡場所として大いに繁昌した。

堅川
 隅田川と中川を東西に結ぶ運河で、深川地域の北限にあたる。
 万治年間(1658~61)に開削された人口運河で、小名木川とともに、
 隅田川と中川を直接結ぶ運河として物資輸送、交通の要として利用された。



【語句について】

〔巽・辰巳〕
 1.十二支で表した方角のひとつで、辰と巳の間の方角、すなわち東南の方角。
 2.東南の方角から吹いて来る強風。
 3.江戸城から見て東南の方角にあることから、深川(の遊里)の異称。また、深川芸者のこと。
 ここでは3の意。
 「吉原は北方に在るを以て、これを北里と言ひ、深川は東南に在るを以て、之を辰巳と言ふ」
 (『江戸繁昌記』)

大江戸と ならぬ昔の武蔵野の 尾花や招きよせたりし
 全体の文意としては
 「この町が「大江戸」と呼ばれるほど発展するより昔、
 まだ広々とした野原であった武蔵野に咲く薄が招きよせたのだろうか」。
 「大江戸」は繁栄を誇る江戸の美称。
 「尾花」は薄の花で、風にそよぐ様が人を招く姿に例えられ、武蔵野の景物として詩歌によく取り上げられる。
 また、深川・門前仲町にあった料亭の「尾花屋」の名を掛ける。
 「春は梅本に花の香を探り、秋は尾華がもとに伏猪の床をやしたふらむ」(『深川大全』)
 『長唄名曲要説』他の解説書では、
 「武蔵野」は佃(アヒル)にあった青楼(料理茶屋)の「武蔵屋」を掛けるとするが、典拠未確認。 
 いずれにしても、深川の料理茶屋の名を効かせて、表の文意の他に
 「深川の遊女にふらふらと招きよせられたのだろうか……」という別の文脈を読ませる。

恋と情の深川や 
 情けが深いさまと掛けて「深川」を導く。
 なお、常磐津では「張りと意気地の深川や」で、深川女性の気質の形容としてはこちらの方が一般的。

縁もながき
 男女の縁が長いことと掛けて「永代」の語を導く。

永代の 帰帆はいきな送り船 〈永代の帰帆〉
 永代橋付近の船宿に戻る舟の様子から、八景の一つ「永代の帰帆」を描く。
 「送り舟」は遊びから帰る客を乗せて船宿へ送っていく舟のことで、
 迎え舟とともに深川独特の風習であった。
 廓の外に出られない吉原の遊女とは異なり、深川の遊女や芸者は外への出入りが自由であったため、
 舟宿から馴染の客が来たとの知らせを受けると、
 船に乗って迎えに行ったり、客が帰る船に同乗して送ったりした。
 「為になる客または色客または店者などと約束して、迎ひにくる事あり。大かたは舟宿へくるなり。
 (中略)送りは仲町土ばしに限る。客かへる時送るには二ツになほす也」(『深川大全』)

その爪弾の糸による
 「爪弾の糸」は三味線の音のことで、ここでは送り舟に同乗した芸者が爪弾く三味線をさす。
 芸者衆が舟で弾く音曲としては「佃々と急いで押せば……」で知られる佃節が有名。
 永代橋を越える時、舟同士が行きあう時など、それぞれ異なる手が決まっていたと伝わる。
 佃節は後に歌舞伎の黒御簾音楽の佃に継承され、
 舟遊びの感じを出す時、深川岡場所の人物の出入りなどに用いられる。
 また、「糸によるものならなくに別れ路の心細くも思ほゆるかな」(『古今和歌集』在原業平)により、
 「糸による恋」が心細い恋を意味することから、「糸による」で恋と同義の次の「情け」を導くか。

情に身さへ入相の
 「情」は多義語で、感情・人情・情愛・情趣など様々に解されるが、ここでは男女の情愛、恋心。
 「身さへ入る」と「入相」を掛ける。
 「身が入る」は1.身にしみる。 2.気が乗って一心になる。一所懸命になる。
 3.筋肉が疲労してこわばって痛む。 ここでは1の意が適切。
 「入相」は太陽の沈む頃、たそがれどき、暮方で、
 「入相の鐘」は、日没の時、寺で勤行の合図につきならす鐘、またその音。晩鐘、いりがね。

きぬぎぬならぬ山鐘も〈八幡の晩鐘〉
 「きぬぎぬ(後朝)」は夜を共にした男女が迎える朝、またその朝の別れのこと。
 「山鐘」は1.山寺でつく鐘。遠くの山寺から聴こえてくる鐘の音。
 2.深川の富岡八幡宮でつく鐘の音。八幡鐘とも。 ここでは2。
 深川では、遊んだ男と女が翌朝に別れる際、富岡八幡宮の朝の鐘の音が合図となったが、
 ここでは八景の一つ「八幡の晩鐘」を描くために「入相の」としているので、
 あえて「きぬぎぬならぬ」と言う。
 なお『雑俳川柳江戸岡場所図会 拾遺』は山中共古氏の論を引いて、
 洒落本の記述から、八幡宮の鐘はジャンジャンとなる半鐘であったものを、安永末から寛政末頃、
 ゴーンと鳴る時鐘に変わったと紹介している。

ごんとつくだ
 前の「山鐘」を「ごんと撞く」と、地名「佃」を掛けた表現。
 また続く詞章に「辻占」恨みて」とあるので、
 「辻占」の結果はに「来んと(こんと)」=辻占に想う男が来ないと出たことを言うか。
 「佃」については〈長唄「巽八景」に登場する深川の地名〉参照。

辻占に 燃る炎の篝火(かがりび)や 
 「辻占」は元々は辻に立って、通り過ぎる人々の言葉から吉凶を判断する占いのこと。
 江戸時代になると、辻占売りが売り歩いた、占いを書いた紙のことも指すようになった。
 ここでは単に占いのこと。
 「篝火」は鉄製のかごの中に松材を入れて燃やす火のことで、夜間の警護、照明、漁労などに用いる。
 芳しくなかった占いの結果を受けて、嫉妬や怒りで穏やかでない女の心情を、
 深川の海や隅田川口で夜漁に使われる篝火に例えた表現。

せめて恨みて
 「せめて」は1.(他にせまり他をせめる意から)しいて、無理に、たって。
 2.(自分にせまり自分をせめる意から)切実に、しきりに、熱心に。
 3.非常に、ひどく、たまらなく。 4.無理にがまんして言えば、しいて言えば。
 5.これだけでも、少なくとも。 ここでは3の意。

玉章を 薄墨に書く雁の文字〈佃の落雁〉
 「薄墨にかく玉梓と見ゆるかな霞める空に帰るかりがね」(『後拾遺和歌集』71番歌)による表現。
 霞む空に飛ぶ雁を文字に見立てた和歌の表現を用いて、女性が手紙を書くさまを表現し、
 「雁の文字」の言葉から落雁を導いて、八景の一つ「佃の落雁」を表す。
 「玉章(玉梓)」は手紙、便りのこと。また「薄墨」は薄墨紙(薄い鼠色の紙)のこと。

女子の念も通し矢の 届いて今は張り弱く 
 「玉章」に込めた「女子の念」=想いが相手に届き、逢瀬が叶うこととなった今では、
 日頃の張り=気の強さもかたなしになってしまう、という文意。
 想いが届くさまを、深川の三十三間堂で行われていた通し矢(大矢数)に例えた表現。
 「其後じまへとなり、仲町へ出てより、芸者衆とよばるゝも所の習ひなり。
 光陰は三間堂の通し矢よりも 早く、はや中どしまといふも古くなれば……」(『古契三娼』)
 なお現在の江東区立数矢小学校は、大正二年(1913)数矢尋常小学校として三十三間堂・西の縁側の跡地に
 開校したと伝えられ、校名も大矢数に由来する。

いつか
 ここでは「いつの間にか」の意。

二人が仲町に しっぽり濡るる〔心をひかれ〕 夜の雨〈仲町の夜雨〉
 「二人が仲」に「仲町」を掛け、「夜の雨」と合わせて八景の一つ「仲町夜雨」を描く。
 仲町(永代寺門前仲町)については、〈長唄「巽八景」に登場する深川の地名〉参照。
 「しっぽり」「濡るる」は雨に濡れるさまとともに、男女の情愛こまやかなさまを言う。
 改訂歌詞「心をひかれ」で唄うこともある。

堅い石場の約束に 話は積もる雪の肌〔雪の暮れ〕〈石場の暮雪〉
 約束が堅固なさまを言う「堅い」からの連想で地名「石場」を導き、
 女性の白い肌を例えた「雪の肌」と合わせて八景の一つ「石場の暮雪」と見立てる。
 「石場」については〈長唄「巽八景」に登場する深川の地名〉参照。
 なお改訂歌詞「雪の暮れ」ならば実景と見ることも可能である。

とけて嬉しい胸の雲 
 『日本舞踊全集』の解説では、解けては帯がとけることで胸の雲は峰の雲の言い換えと読んでいるが、
 「胸の雲」は、心がふさいで晴れ晴れとしないさまの例えととるのが妥当と考える。
 心の雲・胸の雲などと同義。

吹き払ふたる晴嵐は
 「晴嵐」は1.晴れ渡った日の霞。よく晴れ渡った日に立ち昇る山気。 2.晴れた日に吹き渡る山風。
 八景ものの元となった「瀟湘八景図」に描かれるのは1だが、日本で選定された八景ものでは、
 「嵐」の字からの連想で2の意味、もしくは更に広義に「強い風」の意で解釈されているものが多い。
 また同音から「青嵐」=青葉の上を吹き渡る風と解されることもある。
 前の「雲」=胸のふさぎを吹き払うということ。

しんき新地ぢゃ ないかいな〈新地の晴嵐〉
 前の晴嵐と合わせて八景の一つ「新地の晴嵐」を表す。
 「しんき新地」について、『日本舞踊全集』では「新奇」としているが、
 新地の岡場所の成立は享保であるので、新奇という表現は合致しない。
 邦楽詞章によく用いられる「辛気心苦」のもじりと考える方が妥当。
 「辛気心苦」はじれったく思い悩むことの意で、逐語訳してしまうと、
 胸のふさぎが晴れたという前の文脈にややそぐわない。
 本稿では、辻占や情人の態度に一喜一憂してしまう女の身が「辛気心苦」=やっかいだ、
 という流れで解釈した。

洲崎の浦
 「洲崎」は一般名詞として、洲が長く河海に突出して岬のようになったところのこと。
 ここでは固有の地名、深川の洲崎弁天社(現在の洲崎神社)を指す。
 洲崎神社については〈長唄「巽八景」に登場する深川の地名〉参照。

波越さじと 誓ひしことも有明の 
 「契りきなかたみに袖をしぼりつゝ末の松山波こさじとは」(『後拾遺和歌集』770番歌・清原元輔)から、
 「波越さじ」は恋の約束を違えないこと、心変わりしないことの比喩。
 また、洲崎弁天社に津波除けの石碑が建つことも含んだ表現。
 「有明の」は「誓ひしこともあり」と後の「有明の月」を掛ける。

月の桂の 男気は
 前の「有明の」から月を導き、桂、男と連想をつなげる。
 「月の桂」は中国の伝説で、月の世界に生えているという木。
 「桂男」は1.月の世界にいる伝説上の男。2.容姿の立派な男、美男子。ここでは2で情人を示唆する。

定めかねたる 秋の空〈洲崎の秋月〉
 秋の空の変化しやすいことと、男の気持ちが移ろいやすいことの両方を言う。
 また、前の「洲崎」「月」と合わせて、八景の一つ「洲崎の秋月」に見立てる。
 ここで表出する「月」は「月の桂の男」を導くためのもので、実景とは限らないが、
 本稿では現代語訳に活かした。

だまされたさの真実に 見おろされたる櫓下 
 「真実」は、嘘ではないこと。偽りでないこと。ほんとう、誠。
 「見下ろす」の連想で高層建築である「櫓」を、さらに地名の「櫓下」を導く。
 「櫓下」については〈長唄「巽八景」に登場する深川の地名〉参照。
 文意についてはさまざまな読み方が可能だが、本稿では「だまされたさの」の「の」を主格と解釈し、
 現代語訳の下敷きとした。

疑ひ晴れし夕化粧〈櫓下の夕照〉
 「夕化粧」は夕方にする化粧。前の櫓下と合わせて八景の一つ「櫓下の夕照」に見立てる。
  相手に対する疑念が晴れて、逢瀬を前にときめきを抱きながら鏡に向かう女性の姿が想像され、
 夕陽の照り沈む「夕照」のイメージと重なる。

目元に照らす紅の花
 「紅の花」は黄色や紅色の染料のひとつである紅花のことだが、ここでは化粧としての紅のこと。
 紅は口紅として用いるほか、白粉に混ぜ合わせて頬紅としても用いた。
 ここでは「目元」であるので、頬紅として解釈した。

幾世契らん諸白髪 
 「諸白髪」は1.「共白髪」と同義。夫婦がそろって白髪になるまで長生きすること。
 2.頭髪がすっかり白くなること。 ここでは1で、想う人と長く連れ添うことを願う言葉。

浮名たつみの八景と
 「浮名が立つ」と「巽の八景」を掛けた表現。

その一と節を立川の 流れを筆に残しける
 深川の北側を流れる堅川と、作詞者名の立川を掛けた表現。
 堅川については〈長唄「巽八景」に登場する深川の地名〉、
 作詞者については【初代・二代目 烏亭(立川)焉馬】参照。



【成立について】

天保九年(1838)閏四月、池田信濃守邸において初演。作曲十代目杵屋六左衛門、作詞二代目立川焉馬。
『長唄名曲要説』等の解説書は天保十年成立としているが、
これは正本もしくは稽古本刊行の年と推察されている(稀音家義丸氏・池田弘一氏ほか)。
同じ詞章に基づいた常磐津が先に成立、天保八年(1837)九月、同じ池田信濃守邸で初演されている。



【初代・二代目 烏亭(立川)焉馬】

本曲「巽八景」作詞者の二代目烏亭(立川)焉馬は、本名山崎〓(しょう)次郎。
江戸南町奉行を勤めたが、遊蕩のため弟に家督を譲ったとされる。
多趣味な人物で、戯作を好み、近松門左衛門や蓬莱山人帰橋など著名な文人の二代目を次々に襲名、
文政十一年(1828)に二代目焉馬を襲名し、立川流家元と称して落語界にも進出した。
相撲を好んで行事となり、式守鬼一郎を名乗ったほか、猿猴坊月成の名で春本を多作した。
花咲一男編『雑俳川柳岡場所図絵 拾遺』によれば、深川の石場に居住したという。
長唄「巽八景」の作詞者として、山中共古氏は「二世焉馬ありしも夫れにはあらじ」と、
二代目作詞説を否定し、初代の著作を後年出版したものと推察している。
しかし、元治元年(1864)版・仮名垣魯文作『仮枕巽八景』初編三丁オモテに
「巽八景/常磐津文字太夫直伝/作者立川松樹翁直伝」の記述があり、
二代目焉馬の別号が松樹庵永年であることから、作詞者は二代目とする方が妥当である。

なお、初代の烏亭(立川)焉馬は、江戸文化に多大な足跡を残した人物。
本名中村英祝、通称和泉屋和助。戯号として、生業にちなんだ鑿釿言墨金(のみちょうなごんすみかね)、
市川団十郎にちなんだ立川談洲楼などと名乗った。
祖父の代から江戸本所相生町に住まいし、家業は大工。
焉馬自身も生涯を通して大工の棟梁で、幕府の小普請方もつとめた。
また自宅では、足袋・手袋・煙管なども商った。
俳諧・狂歌・浄瑠璃・戯作・落咄など多方面で才能を発揮し、
広い交友関係もあって、文壇に大きな勢力を築いた。
門下には、『偐似紫田舎源氏』の柳亭種彦・『浮世風呂』の式亭三馬がいる。
天明六年(1786)以降、新作の落咄を披露する「咄の会」を主催、江戸落語中興の祖と呼ばれる。
また、市川団十郎の熱狂的贔屓であり、七代目団十郎の贔屓団体である〈三升連〉を組織した。
五代目団十郎とは義兄弟の契りを結ぶほどの間柄であり、市川家の後ろ盾となってもり立てた。
代表作に『伊達競阿国戯場』(合作)、『碁太平記白石噺』、『花江都歌舞妓年代記』など。


【参考文献】

朝倉無声・花咲一男編『雑俳川柳江戸岡場所図会 上・拾遺』近世風俗研究会、1964・1970
有澤晶子「日本における見立ての表彰としての八景」『文学論藻』88号、東洋大学文学部紀要67集、2014.2
池田弘一『長唄びいき』青蛙房、2002.4
石立裕子・綿抜豊昭「日本で選定された「八景」の景物について」『図書館情報メディア研究』7-2、2010.3
大槻正二「巽八景」『江戸時代文化』江戸時代文化研究会、六合館、1930.7
『深川新話』『深川大全』
 →洒落本大成編集委員会『洒落本大成8・29』中央公論社、1980・88
竹内道敬「邦楽名所めぐり 江戸(その五)―八景ものを中心に」『季刊邦楽』48号、邦楽社、1986.9
『古契三娼』
 →中野三敏ほか校注『日本古典文学全集47 洒落本・滑稽本・人情本』小学館、1971.5
日野龍夫校注『新日本古典文学大系100 江戸繁昌記・柳橋新誌』岩波書店、1989.10
山中共古「常磐津巽八景略解」『日本書誌学大系46(1) 山中共古全集1』青裳堂書店、1985.4
山中共古「洒落本を通して見たる深川」『日本書誌学大系46(1) 山中共古全集1』青裳堂書店、1985.4



【その他】稿者覚え書き

『仮枕巽八景』(国立国会図書館蔵本・マイクロあり・翻刻なし) 
仮名書魯文作・歌川国周画・辻岡屋文助板・元治元年(1864) 初編三丁オ

「巽八景/常磐津文字太夫直伝/作者立川松樹翁直伝」
上部に常磐津「巽八景」の詞章「大江戸と……雁の文字」が引用される。
中央には、月琴を持って立つ「山本少蘭女」と、三味線を脇に抱え唄本を手にしゃがむ「常磐津兼多代」
の挿絵が描かれ、下部に
「モシおたよさん このあひだ□□はしの千万さんがたつみはつけいをおまへのところで
けいこしたなら月琴□にあハせてくれろとおいひなすつたが いつもむりばかりおつしやつてこまらせますヨ」
「ホヽヽしまいにやアたうしせんをこきうにあハせろとおいひだらう よつぽどのひねりですねへ」
の台詞がある。