橋 弁 慶
明治元年(1868)四月

作曲 三代目 杵屋勘五郎

[前弾]〈本調子〉 
これは西塔のかたはらに住む 武蔵坊弁慶にて候 
我宿願の仔細あるにより この程北野へ 丑の時詣仕りて候 
また今夜より十禅寺へ 参らばやと存じ候 如何に誰かある 
御前に候 今夜より十禅寺へまゐらうずるぞ 供仕り候へ 
今夜は御とどまりあれかしと存じ候 
何とて左様には申すぞ 
昨日夜更けて五條の橋を通り候へば 十二三なる稚き者の 
小太刀を持って切ってまはり候は さながら蝶鳥の如くにて候 
左様の者あらば何とて討たざりけるぞ 
討たんとすれば逐ひ払ひ 手元へ敵を寄せず候 
たとへ手元へ寄せず共 大勢にては討つべきに おっとりこむれば 
不思議にはづれ 
間近く寄れば 
目にも見えず 
神変不思議奇特なる 都広しといふとも それ程の者あらじ 
実(げ)に奇体なる事かな 十禅寺詣をば 思ひ止まらうずるにて候 
然るべう候 
イイヤ 弁慶ほどの者が 聞逃(ききにげ)しては叶ふまじ 
今宵更けなば橋に出で 化生の者を平らげんと 

[謡]
夕べ程なく暮方の ゆふべほどなく暮方の 
雲の景色も引きかへて 風荒まじく更くる夜を 
遅しとこそは待ち居たれ 遅しとこそは待ち居たれ

[一声合方]
さても牛若は 母の仰せの重ければ 明けなば寺へ登るべし 
今宵ばかりの名残ぞと 月の光に詠むれば 
面白の景色やな そぞろ浮き立つ我こころ 
五条の橋の橋板を とどろとどろと踏み鳴らし 通る人をぞ待居たる

[合方 大薩摩]
すでに夜を待つ時も来て 三塔の鐘も杉間の月影に 
着たる鎧は黒革の 縅しにおどしし大鎧 
草摺長に着なしつつ 元より好む大長刀 
真ん中取って打ちかつぎ ゆらりゆらりと出でたる粧ひ 
いかなる天魔鬼神なりとも 面を向くべきやうあらじと 
我身ながらももの頼もしうて 手に立つ者のあれかしと 
五条の橋板踏み鳴らし 心凄げに歩みしが 

薄衣かづき立ち給ふを 弁慶見付けて 言葉をかけんと思へども 
彼は女の姿なり 
我は出家の事なれば 思ひわづらひ過ぎ行けば 
牛若彼をなぶりてみんと 行違ひさまに長刀の柄を 発止と蹴上ぐれば 
すはしれ者よ 物見せんと 長刀やがて取直し 切ってかかれば 
牛若は 少しも騒がず 太刀抜き放ち 詰めつ 開いつ 戦ひしが 
たたみ重ねて打つ太刀に 
さしもの弁慶合はせかね 橋桁を二三間 退って肝をぞ消したりける 
ものものしやと長刀を 柄長く取りのべ走り寄り 丁と打てば 飛び違ふ 
裾を払へば をどり上り 
宙を払へば 頭を地につけ 千々に戦ふ 
大長刀 打ち落されて力なく 
組まんとすれば 切払ふ 
詮方なくて弁慶は 奇体なる小人かなと 呆れ果ててぞ立たりける 
不思議や御身いかなれば かほど健気にましますぞ 
我は源の牛若なり さて汝は 
西塔の武蔵坊 弁慶なりと 名乗り合ひ 
降参申さん御免あれ 今より三世の主従ぞと 契約堅く仕り 
薄衣かづかせ奉り 弁慶は長刀を打ちかつぎ 九条の御前へ参りける

(歌詞は文化譜に従い、表記を一部改めた)




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謡曲「橋弁慶」をほぼそのまま長唄にしたもので、
幕末から明治のはじめにかけての、謡曲物流行の中でつくられた曲です。
曲中に大薩摩の節が多用されているのは、
大薩摩節の家元を正式に継承した作曲者・三代目杵屋勘五郎が、
大薩摩節の復興を試みてつくったからと言われています。
唄の筋は、五条橋の上で弁慶と牛若(義経)が出会い、
対決の末に負けた弁慶が牛若の家来となって忠誠を誓う、というもの。
明治時代に出版された昔話全集によって、
「千人斬りをしている弁慶を牛若が退治する」という話型が一般的になりましたが、
古くは牛若が千人斬りをするパターンの話も存在し、
謡曲「橋弁慶」および本曲も、橋の上で辻斬りをしているのは牛若に設定されています。
大男で魁偉な容貌の弁慶と、華奢で眉目秀麗な牛若。
私たちが思い浮かべる両者の姿は、まさに対照的です。
本曲でも、弁慶の〈鎧〉に対して牛若の〈薄衣〉、弁慶の〈大長刀〉に対して牛若の〈小太刀〉と、
その対照性が効果的に演出されています。
にもかかわらず、千人斬りについて二つの話型が伝わっているのはなぜなのでしょうか。
弁慶と牛若、この二人の生い立ちをよく見てみると、いくつかの共通点に気がつきます。
どちらも高貴な生まれでありながら、その立場のまま成長することが許されなかったこと。
どちらも寺に預けられ、学問に類いまれなる才能を発揮したこと。
どちらも仏門に自分の居場所を見つけられず、別の世界へ飛び出したこと。
まるで表と裏、陰と陽のように、弁慶と牛若は対角線上にありつつも重なり合います。
このことから、弁慶は、牛若像から荒事の要素を独立させて造型されたのだという考え方もあります。
本曲において五条橋は、表裏一体の二人がはじめて出会う場所。
私たちが伝えてきた数々の物語の中で、もっとも強い絆で結ばれた主従が、いまここに誕生します。


【こんなカンジで読んでみました】

ここにおります私は、西塔のはずれに住む武蔵坊弁慶と申す者です。
私には前々より神仏に祈願しているちょっとした願い事があるもので、
近頃は北野天満宮へ丑の時詣を申し上げております。
また今夜からは十禅寺へもお参りしたいものだと思っております。

おい誰か、誰かおらぬか。
ははっ、御前にござります。
うむ。我は今夜から十禅寺へ参詣しようと思うぞ。いざ、供をいたせよ。
いやいや、今夜はどうかおやめいただきたいと存じ上げます。
なに、やめよと。なぜそのように申すのだ。
さ、そのことでございます。
昨日のこと、夜が更けてから五条の橋の上を通りましたところ、
十二、三歳ほどのまだ幼い者が、
小太刀を持って人を斬りまわっておりますその様子、まるで蝶か鳥かと思われるようでございました。
そのような者がおったならば、なぜに討たなかったのだ。
討とうとすれば追い払い、敵を手元へ寄せ付けぬのでございます。
手元へ寄せずとも、大勢であれば討つこともできよう、それ、四方から取り囲めば。
それが、不思議に逃げ出しているのです。
では、間を詰めて近寄れば。
目にもとまらぬ早さでして。
これは何とも、京の都に奇妙不思議な者が現れた。
いかに都広しと言えども、それほどの者はそうそうあるまい、実に怪しげなことではないか。
よし、今宵の十禅寺詣は、思い留まることに致そう。
それがようございます、そうなさいませ。
いや。いやいや。
弁慶ほどの者が、この話を聞いて逃げ出すことは許されまい。
今日、夜が更けたら五条橋へ出かけ、その化け物を退治してやろう。

弁慶がそう言い放ったのが夕方の頃。程なく日は落ち、雲ゆきは怪しく動いた。
空の様子がすっかり変わり、吹き荒れる風が雲を散らす不穏な宵、
弁慶はその時を、今か今かと待っていた。

さてその頃、牛若は。
母上のお言いつけに背くわけにはいかない。だから、夜が明けたら鞍馬山へ帰ることにしよう。
となると、ここへ来られるのも今夜が限りとなるわけだ。
月の光を浴びて歌えば、なんて美しい眺めだろう。ぼくの心はなぜかざわめくんだ。
と、五条の橋の橋板をわけもなく音を立てて踏みしめながら、通る人を待っていた。

夜は更けた。三塔の鐘の音も既に鳴り過ぎ、時は来た。
杉間から覗く月の光に浮かび上がるのは、
いかめしい黒革縅の大鎧に身を包んだ我が姿。
草摺を長く垂らして、得手の大長刀をむんずとつかんで背に担ぎ、
ゆらりゆらりとのし歩くこの弁慶には、
どんな鬼でも魔物でも、面と向かって立ち向かうことはできないだろうと、
ふむ、我ながら頼もしい。
噂の手練れに巡り会いたいものだと、
五条の橋板をがらがらと踏み鳴らし、もの寂しい橋の上を歩いていくと、

闇の中に薄衣をかぶった牛若がお立ちになっている。
弁慶はこれを見つけて声を掛けようと思ったが、
やや、あの者は女の姿である。
我は女色を禁じた僧侶の身、どうしたものかと、ためらいながらも通り過ぎた。
一方の牛若は、
鎧を着こんで通り過ぎる変わった奴、あいつをからかってみようと、
すれ違いざまに長刀の柄を思い切り蹴り上げたからたまらない。
なんとふざけた奴め、思い知らせてくれる!と、
弁慶は長刀をすぐに握りなおして猛然と斬りかかった。
牛若は少しもあわてず小太刀を抜くと、間を詰めたり開いたり、
弁慶の豪腕をいなしながら自在な太刀さばきで立ち向かう。
続けざまにうち込まれる牛若の鋭い太刀筋に、
さすがの弁慶も応じきれず、橋げたを二三間ざっと飛びのいて内心舌を巻いた。
小賢しい奴め、それならば。
今度は長刀を長く持って間をとり、上からぐわりと薙ぎ払ったが牛若は飛び上がってこれを避ける。
足元を払えば上におどりあがり、宙を払えば下をくぐり抜け、
さまざまに戦ったが、ついには弁慶、長刀をポンと撃ち落されてしまった。
やむを得ず、素手で組み付こうとしても、小太刀の刃に切り払われて、近づくこともできない。
もはやこれまで、一体なんという子供だと、弁慶は呆れ果てて立ち尽くした。
不思議なことだ、信じられぬ。お前、いや、あなた様は、一体なぜこれほどお強くいらっしゃるのか。
ぼくは源家の御曹司、牛若だ。そしてお前は。
私は北嶺西塔の僧、武蔵坊弁慶でございます。
と名乗り合い、
降参申し上げましょう、何卒お許しくだされ。
それでは今より、ぼくとお前は三世の主従だ。
二人はここに、固い主従の約束をした。
大きな体を小さく丸め、牛若の乱れた薄衣をそっと直して差し上げて、
弁慶は大長刀を拾って背に担ぎ、九条の館へとお供したのだった。



【弁慶と義経の出会い】

弁慶は、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』文治元年(1180)十一月三日・六日の項に
義経の郎党として名が記載されており、実在の人物と考えられるが、
その実像はほとんど伝えられていない、いわば伝説の人物である。
伝承や説話が物語などに伝えられ、また日本各地にも伝説や史跡が残っている。
室町時代初期に成立し、後の文学に大きな影響を与えた物語『義経記』では、
弁慶は紀伊国・熊野の別当「弁せう」が、二位大納言の姫君を強奪して生ませた子であるという。
母の胎内に十八ヵ月とどまって、髪と歯が生えそろった「鬼子」として誕生し、
それゆえに父親に殺されそうになったところを叔母にひきとられ、育てられた。
六歳の時に疱瘡をわずらい、色が黒くなる。
その後元服もしないまま比叡山西塔の桜本の僧正「くわん慶」に預けられる。
学問には秀でた才能を見せるが、生来の粗暴な性格からたびたび騒動を起こしついに放逐され、
その際自ら剃髪して、父親の「弁」と師の「慶」をとって弁慶と名乗った。
その後、四国・播磨国の書写山へ赴くが、ここでも周囲に受け入れられず、
寝ている間に顔に落書きをされ、一同に嘲笑されたのを契機に再び騒動を起こして京に出る。
京で、太刀を千振奪って宝にしようと思い立った弁慶は、その満願の夜、
「五条の天神」に祈ったあと、同所で牛若に出会い、対決にいたるのである。
『義経記』における五条天神社は、巻二・鬼一法眼の項で義経と堪海の決戦の場であり、
また巻三では、弁慶の生母とも関連して登場するなど、義経・弁慶とゆかりの深い場所として語られている。
五条天神社の祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)という体の小さい男神で、
義経が小男として造形されていることとの関連も注目される。
この『義経記』では、弁慶と義経の対決はこの五条天神ののち、清水坂、清水の舞台と
場所を変えて三度行われ、清水の舞台で敗北した弁慶は、義経の「身に添ふ影の如」き家臣になる。
牛若に負けた弁慶が従者として忠誠を誓う、という大筋は、どの弁慶説話においても共通しているが、
物語によって対決の場所や回数、動機などの細部に違いがある。
たとえば、室町時代の物語のひとつ『弁慶物語』では、人々が
「此辺には天狗荒れて、鞍馬の奥より夜な夜な出でて、人を斬る事数を知らず」
と噂しており、千人斬りが牛若の仕業であることが示唆されている。
また『弁慶物語』における弁慶と牛若の出会いは「北野の御前」で、両者はたびたびの再会を経て、
五条橋の真ん中で最後の対決をする、という設定になっている。
以上のように、弁慶と義経の出会いにまつわる物語は一つではなく、
さまざまな場所やパターンを織り交ぜながら語られてきた。
謡曲「橋弁慶」は、それら数々の説話の要素があわさって制作されたものと思われる。



【謡曲「橋弁慶」】

作者不明、四番目物。
典拠は『義経記』とされることが多いが、『義経記』では千人斬りをしているのが弁慶であるなど、
本曲とは異なる点が多い。
古くは、千人斬りを義経の所業とするテキストも存在することから、
本曲の典拠は『義経記』ひとつではなく、
さまざまなテキストによって流布した弁慶の物語で、
義経・弁慶にまつわる種々のエピソードがあわさって制作されたものと思われる。
(上記【弁慶と義経の出会い】参照)
特に義経の超人的な強さは、室町時代物語に描かれた義経像の影響を色濃く受けている。
二段構成の能だが、観世流には、前段(第一段)の前シテを常盤御前とする「笛之巻」が存在する。

(あらすじ)
比叡山・西塔の僧である武蔵坊弁慶が五条の天神へ丑の刻詣に行こうとすると、
従者は、五条橋あたりに人間とは思えない十二三ばかりの少年が出て人を斬っているので、
やめた方が良いと注進する。
弁慶は一度は参詣を思いとどまったものの、やはりその者を退治してやろうと思い直し、五条橋に赴く。
一方牛若(義経)は、母の言いつけによって明日には鞍馬寺へ戻らねばならないので、
千人斬りも今宵限りと思いながら、薄衣をかぶって五条橋の上で人が通るのを待っている。
やがてやってきた弁慶と牛若は大長刀と小太刀で斬り合いになるが、
義経のすさまじい強さに弁慶は手も足も出ない。
降参した弁慶は、義経を主君として仕えることを約束し、二人は九条の御所へ帰って行く。

(「笛之巻」あらすじ)
鞍馬寺へ預けられた牛若(義経)は、学問をせず、夜な夜な五条橋へ出て人を斬っていた。
これを憂慮した源義朝(牛若の父)の家臣・羽田十郎秋長は、牛若の母・常盤御前へ注進する。
常磐は牛若を厳しく叱責し、牛若に伝えられた笛の由来を話して聞かせる。
牛若は明日には必ず鞍馬寺へ帰ることを約束し、最後の名残に、五条橋へ月を見に行こうと思い立つ。
(以下、五条橋でのやりとりは「橋弁慶」と同じ)



【語句について】

これは西塔のかたはらに住む
 「これ」は弁慶が自分を指して言う一人称。
 「西塔」は比叡山延暦寺の一区画。
 延暦寺は、比叡山の山中に散在する150ほどの堂塔の総称で、
 東塔・西塔・横川(よかわ)の三区画に区分され、それぞれに本堂がある。
 実在の弁慶についての史実は全く分かっていないが、
 物語や戯曲など創作物に描かれる弁慶は、比叡山の僧であったとされている。
 西塔にも、ある法華堂と常行堂を結ぶ渡り廊下を弁慶が肩にかけてかついだ、という逸話
 (弁慶のにない〔担い〕堂)があるなど、弁慶にまつわる言説が残る。

宿願
 1.仏教語。前世でおこした願い。
 2.以前から神仏にかけておいた願い事。 ここでは2.の意。

仔細
 1.こまかなこと、くわしいこと。 2.くわしい事情、理由、事のいわれ。
 3.面倒なこと。異論、意義。 
 4.表面に出して言うことができない事情。何かのわけ。また、そのような事情のありそうなさま。
 5.人の感動するようなこと。
 ここでは2.が適切か。
 なお「宿願の仔細」の具体的な内容については、『義経記』の
 「人の持ちたらんずる太刀千振取りて、重宝にせばや」
 に従えば「刀を千振集めること」になるが、
 本曲では橋の上で辻斬りをしているのは牛若なので、「宿願の仔細」の内容としては合致しない。

北野
 北野天満宮。
 謡曲「橋弁慶」では「五条の天神」とする流派もある(観世流)。
 五条の天神は五条天神社のことで、北野天満宮とは別の神社。

丑の時詣
 丑の時参り、丑三参りとも。
 1.悪鬼神の威力を借りて祈願を達成するため、丑の時刻(午前一~三時、特に二時頃)
 に神仏に参拝すること。
 2.恨む人を呪詛するため、鳥居や神木に相手をかたどった人形を釘で打ち付けて祈ること。
 白衣を着て、五徳(鉄輪)に火をつけたろうそくを立てて頭上に載せ、
 胸に鏡をかけた異様な姿をして行う。
 元来は1.の意味で言ったが、後には謡曲「鉄輪」のように、呪いのひとつ、
 特に嫉妬にかられた女性が恋敵を呪う行為を言うようになった。
 ここでは1.の意。

十禅寺
 十禅寺という寺院は京都市山科に実在するが、本曲において弁慶の目的地とするには
 距離的に不適切であり、「十禅師社」の誤りとする方が適切か。
 十禅師社について『京都山城寺院神社大事典』は、
 松原通に面して北御門町から西御門町の間にあったと推定している。
 安永九年(1780)刊の『都名所図会』には
  「十禅師社(じゅうぜんじのやしろ)は清明社の南にあり。
   むかしは境地広くして樹林森々たり。牛若丸この林に隠れ、
   千人斬りありしとなり。武蔵坊弁慶もこの神前に於て主従の約をなせしといふ。
   (注)明治維新前に廃す。」
 とあり、弁慶・牛若が主従の契りをむすんだ故地と伝えられている。

参らばや
 「ばや」は自己の願望を表す終助詞で、未然形に接続する。
 「参詣したいものだ」。
 
まゐらうずるぞ
 「まゐる(参る)」未然形に意志の助動詞「むず」連体形がついた「まゐらむずる」のウ音便。
 「参詣しようと思うぞ」。

御とどまりあれかし
 「かし」は念を押す意味を付加する終助詞で、「……よ、……だよ」などと訳す。
 「おやめくださいよ」。

さながら
 副詞。前述されたこと「そう、その」の意を表す「さ(然)」に接続助詞「ながら」がついたもの。
 1.そのまま、もとのまま。 2.すべて、全部、残らず。
 3.(打消の語を伴って)まったく、全然。 
 4.(比況〔たとえ〕の語を伴って)あたかも、ちょうど、まるで。
 ここでは後に「如く(ごとし)」という比況の語があるので、4.が適切。

おっとりこむれば 
 「おっ」は接頭語で、語意を強める。
 「とりこむれ」は下二段活用動詞の已然形であるので「取り篭む」。取り囲む、閉じ込める、の意。
 已然形に接続助詞「ば」がついて、順接確定条件(……と、……ので)を表す。

神変不思議
 「神変」は人知でははかり知ることのできない不思議な変化。
 「不思議」は「不可思議」の略で、思いがけないこと、考えられないこと。また、怪しいこと。

奇特なる(「奇特なり」)
 1.非常に珍しく、不思議なさま。また、すぐれているさま。
 2.心がけや行いが普通よりもすぐれていて、ほめるべきさま。 ここでは1.の意。

奇体なる(「奇体なり」)
 普通と違って珍しいこと。不思議なこと。また、そのさま。

化生の者
 「化生」は本来仏教語で、1.母体や卵殻などによらず、忽然と生まれること。
 2.形を変えて現れること(化身) などの意。
 「化生の者」は、1.ばけもの、へんげ、妖怪。
 2.美しく着飾って男性を惑わす女性。 ここでは1.の意。

平らげん 
 「平らぐ」は
 1.平らにする、ならす。 2.乱れを沈める、平定する。 3.すっかり食べ尽くす。
 ここでは2.の意。

夕べ程なく暮方の 
 「夕べ(ゆふべ)」は夕方、宵、日没の頃。
 「程なく(程なし)」は、
 1.(空間的に)広さがない、狭い。小さい。低い。
 2.(時間的に)間もない。年若い。 3.身分が低い。 ここでは2.の意。
 「暮方」は日の暮れる頃で、本曲の文脈的には「夕べ」よりやや遅い時間帯を指す。

雲の景色も引きかへて 風荒まじく更くる夜を 
 「景色」は眺め、風景。
 「ひきかへて(引き替ふ)」は、取り換える、すっかり変える、反対にする。
 夕方の空の様子がすっかり変わり、荒々しく吹き荒れる風が雲を散らす不穏な夜になったということ。

遅しとこそは待ち居たれ
 「こそ(係助詞)……たれ(活用語の已然形)」は強意を表す係り結び。
 まだかまだかと待ち焦がれているさま。

さても
 接続詞。ところで、さて、それにしても。
 弁慶の描写から牛若の描写への場面転換を示す。

母の仰せの重ければ
 「仰せ」はお言葉、ご命令、お言いつけ。
 具体的には、母・常盤御前が、鞍馬寺を抜け出して五条橋で人を斬る義経の不行跡を叱責したことで、
 「笛之巻」に描かれている内容。
 「重ければ(重し)」は、ここでは尊い、重要であるの意。

明けなば寺へ登るべし 
 完了の助動詞「ぬ」未然形の「な」+接続助詞「ば」で、
 順接仮定条件(……なら、……たら)を表す。
 夜が明けたら、鞍馬寺へ戻ろう、の意。

月の光に詠むれば 
 「詠むれ(詠む)」は詩歌を節をつけて口ずさむこと。

とどろとどろと
 とどろき響く音やその様を表す語。
 特に、板敷を踏み鳴らす音、雷の激しく鳴り響く音などを表す。

三塔の鐘
 比叡山の東塔・西塔・横川の三区画(前項目参照)を総称して「三塔」と言う。
 比叡山境内に鳴り響く鐘(の音)。

杉間の月影に 
 「杉間」は「(鐘の音が鳴る時刻も)過ぎ」と「杉」の掛詞。
 杉の梢の間から覗く月の光。

〔着たる鎧は黒革の……ゆらりゆらりと出でたる粧ひ〕
 弁慶の出で立ちを説明した歌詞。
 「黒革の縅しにおどしし」は、黒革縅(の鎧)と、こわがらせるの意の「おどし」を掛けた表現。
 「黒革縅」は、小さな板を黒色の紐状の革でつなぎ合わせてつくられた鎧、またその作り方のこと。
 「大鎧」は、1.大型の鎧。 2.装具をすべて完備し、兜や袖、草摺が大きく作ってある鎧。
 騎射戦が行われた源平時代にはよく用いられたが、歩兵戦が主になった南北朝時代以降は廃れ、もっぱら威儀用となった。
 「草摺長」は、鎧の後ろの「草摺」を通常より長く垂らして着用すること。
 「大長刀」は、長い柄に反り返った長い刃をつけた武器で、
 はじめ馬上戦に用いられたが、後に女性や僧が用いるようになった。
 全体に重装備でいかめしく、牛若とは対照的に描かれている。

心凄げに歩みしが
 「心凄げに」は形容詞「心凄し」から派生した形容動詞「心凄げなり」連用形。
 意味は「ものさびしい、人気がなく気味が悪い、恐ろしい」で、
 弁慶の歩くさまの描写としてはやや不適切か。
 謡曲「橋弁慶」では、橋の上で通る人を待つ牛若の描写として
  「川風もはや更け過ぐる橋の面に、通る人もなきぞとて、心すごげに休らへば」
 と用いられている語で、長唄詞章につくりかえられた際、主格が牛若から弁慶に変化したと思われる。
 本稿では、弁慶が通る橋の描写として意訳的に解釈した。

薄衣かづき立ち給ふ
 牛若の出で立ちを説明した歌詞。
 「かづき(かづく)は、1.かぶる、頭にいただく。
 2.(衣服などを)ほうびとしていただく、またいただいた衣服を左の肩にかける。
 3.(責任などを)しょいこむ、引き受ける。 で、ここでは1.の意。

彼は女の姿なり 
 弁慶が牛若を見た印象であるので、「彼」は牛若のこと。
 薄衣をかぶっている牛若を見て、女だと思い込んでいる。

思ひわづらひ
 あれこれと考えて思い悩む。思案にくれる。

牛若彼をなぶりてみんと
 牛若の心中であるので、「彼」は弁慶のこと。「なぶる」はからかう、冷かすの意。

すはしれ者よ
 「すは」は相手を驚かしたりするとき、あるいは突然の出来事に驚いた時に発する語。
 あっ、やっ、それ。
 「しれ者」は馬鹿者、愚か者。
 転じて、只者ではないと褒める意で、あることに心をうち込んでいる人を言う場合もあるが、
 ここでは単に、弁慶が義経をののしって言う語。

物見せん
 「物見す」に意志の助動詞「む」連体形がついた「物見せむ」の撥音便。
 「物見す」は、手並みを見せてやる、はっきりと思い知らせてやる、といった意。
 謡曲、歌舞伎などの荒々しい所作事で「いで物見せん」とよく用いられるセリフ。

やがて
 すぐに、早速。長唄メモ「五大力」ほか参照。

詰めつ 開いつ
 「つ」は並立を表す助動詞。
 「詰め開く」で、短くつめたり長くのばしたりして調節・加減すること、
 転じて談判したり掛け合って話を付けたりすること、の意がある。
 ここでは単に、(間を)詰めたり開いたり、の意。

肝をぞ消したりける 
 「ぞ(係助詞)……ける(活用語連体形)」は強意を表す係り結び。
 「肝を消す」は、
 1.心配・焦慮などで落ち着かない気分になる。
 2.突然の出来事や予想外の結果などに、非常に驚く。肝をつぶす。
 ここでは弁慶が義経の強さに驚いた様を言うので、2.が適切。

ものものしや
 形容詞「ものものし」は、
 1.いかめしい、おごそかである、堂々としている、立派である。
 2.仰山である、大げさである、こしゃくである、おこがましい。
 ここでは、思わぬ技量を見せた義経に対して、弁慶が悔しまぎれに発した語であるので、
 2.が適切。

長刀を柄長く取りのべ
 接近しての斬り合いでは形勢不利と見た弁慶が、
 長刀の柄を長く持ち、間合いを十分にとって、離れて戦おうと試みた場面。

丁と(ちょうと)
 古くは「ちょうど」。
 1.激しく物に当たって音を立てるさま、また、強く切ったり打ったりするさま。
 2.激しくにらみつけるさま。 3.力強くかみあったり、しまったりするさま。
 4.整然としているさま。 ここでは1.の意。

千々に戦ふ 
 「千々に」は形容動詞「千々なり」連用形。
 1.数が多いこと。たくさん。 2.いろいろなさま。さまざま。 ここでは2.の意。

力なく(力なし)
 1.仕方がない、やむをえない。 2.力がこもらない、気力がない。
 大長刀を打ち落された弁慶が、徒手で立ち向かう様子を言うので、1.が適切。
 
詮方なくて
 ただしくは「為む方なし(せむかたなし)」。
 なすべき方法がない、どうしてよいかわからない、しかたない、やりきれない、耐えられない。

小人 
 1.年若い人、少年、こども。 2.(主に元禄時代に)稚児、若衆。
 3.背丈の低い人。 4.徳・器量のない人。小人物。
 5.身分の卑しい者、小者。
 義経は小柄であったという伝承もあるが、ここでは前に「十二三なる稚き者」とあるので
 1.で解釈するのが妥当。

いかなれば
 どういうわけで、どうして。

健気
 1.勇ましいさま。 2.しっかりして強いさま。健やかなさま、健康。
 3.殊勝なさま。 4.(子供などの弱い者が)懸命に努めるさま。 ここでは2.の意。

ましますぞ
 「まします」は「あり」の尊敬語。
 いらっしゃる、おいでになる、おありになる。
 自らの負けを認めた弁慶が、義経に対して敬意を表現するようになった場面。

三世の主従
 仏教語で、前世・現世・来世の総称。あるいは父・子・孫の三代を指すこともある。
 ことわざに「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」と言い、
 主従関係をさして「三世の縁」「三世の契り」とも言う。

契約
 約束すること、言い交わすこと。
 
薄衣かづかせ奉り
 家来となった弁慶が、牛若のかぶっていた薄衣が戦いで乱れたのを、
 元のように整えて差し上げる、ということ。

九条の御前
 謡曲「橋弁慶」では、「九条の御所へぞ」。
 牛若の邸宅を指していると思われるが、なぜ九条に設定されているのか不明。
 『謡曲大観』の頭注は、牛若の母常盤が九条院の雑仕であったことによるかと推測している。
 また「御所」から「御前」の変化については、『日本舞踊全集』が
  「明治になってつくられた曲なので、臣民の館を御所とはいわぬという考えで、
  御前と直したものであろう」
 と推測している。



【成立について】

明治元年(1868)初演。
作曲・三代目杵屋勘五郎(十一代目杵屋六左衛門)。
謡曲「橋弁慶」の詞章を一部改訂したもの。
謡曲「橋弁慶」を扱った先行作品には、
文化年間(1804~17)成立の河東節「橋弁慶」、嘉永四年(1851)成立の一中節「橋弁慶」があり、
稀音家義丸師は三代目勘五郎が作曲時に参考にした可能性を指摘している(長唄聞書)。
明治元年は三代目勘五郎が大薩摩家元を正式に継承した年であり、
本曲「橋弁慶」の作曲には大薩摩復興の意図があったと言われる。
謡曲の詞章には流派によって異同があり、
池田弘一氏は冒頭詞章の比較から、本曲は喜多流の詞章にもっとも近いと述べている(『長唄びいき』)。
また『日本舞踊全集』橋弁慶の項には、
 「父親の十代目六左衛門(十一代目大薩摩家元、大薩摩筑前大掾藤原一寿が、
  能楽喜多流家元、喜多六平太と親交があったので、その影響も見のがせません」
とある。

なお、本曲で描かれる弁慶と義経の五条橋における対決をダイジェスト的に圧縮したのが長唄「五条橋」。
また、長唄には本曲とは別に
文化八年(1811)三月中村座初演、七変化「遅桜手爾葉七字」のひとつの「橋弁慶」があるが、
これは弁慶に夜鷹がからむ内容で、謡曲「橋弁慶」に基づくものではない。



【参考文献】

青江舜二郎「橋弁慶」『芸能』通号62、1964.4
池田弘一『長唄びいき』青蛙房、2002
市古貞次ほか校注『新日本古典文学大系55 室町物語集・下』岩波書店、1992.4
乾克己ほか編『日本伝奇伝説大事典』角川書店、1986.10
上田信道『名作童謡ふしぎ物語』創元社、2005.1
上田信道校訂・巌谷小波著『日本昔噺』東洋文庫692、平凡社、2001.8
梅原猛ほか監修『能を読む 四』角川学芸出版、2013.8
大隅和雄ほか編『新版日本架空伝承人名事典』平凡社、2012.3(初版1986) 
梶原正昭校注『新編日本古典文学全集62 義経記』小学館、2000.1
上笙一郎編『日本童謡事典』東京堂出版、2005.9
稀音家義丸「長唄聞書39 橋弁慶」(http://www.kine-ie.com/kikigaki/kikigaki39.htm)
小谷青楓『長唄註解』法木書店、1917
佐成謙太郎『謡曲大観 四』明治書院、1931.2(1982.7再版)
中村篤彦『こんなによくわかる長唄一 弁慶義経ものがたり』邦楽ジャーナル、2014.4
町田嘉章『ラジオ邦楽の鑑賞』日本放送出版協会、1950.10
『京都山城寺院神社大事典』平凡社、1997