船 弁 慶
明治三年(1870)

作曲 二代目 杵屋勝三郎

[謡ガカリ 次第] 
今日思ひ立つ旅衣 今日思ひたつ旅衣 帰洛を何時と定めん
斯様に候ふ者は 西塔の傍に住まひする 武蔵坊弁慶にて候 
さても我君判官殿は 頼朝の御代官として平家を亡ぼしたまひ 
御兄弟の御仲日月の如くに御座候ふべきを 言ひがひなき者の讒言により
御仲違はれ候ふこと 返すがへすも口惜しき次第にて候 
しかれども我君親兄の礼を重んじたまひ ひとまづ都を御開きあって 
西国の方へ御下向あり 御身に過なき通りを 御嘆きあるべき為に 
今日夜をこめ淀より御船に召され 津の国尼が崎大物の浦へと急ぎ候

〈本調子〉 
頃は文治の初つ方 頼朝義経不会の由 既に落居し力なく 
判官都ををちこちの 道遙かなる西国へ 
まだ夜深くも雲井の月 出づるも惜しき都の名残 
一と年平家追討の 都出には引きかへて 唯十余人すごすごと 
さも疎からぬ友船の 上り下るや雲水の 身は定めなき習ひかな
[謡ガカリ] 
世の中の人は何とも石清水 人は何ともいは清水 澄み濁るをば神ぞ知るらんと 
高き御影を伏拝み 行けば程なく旅心 
潮も浪も共に退く 大物の浦に着きにけり
いかに申し上げ候 
恐れ多き申事にて候へども 静を御供にては今の折節何とやらん似合わぬ様に候へば 
これより都に御帰しあれかしと存じ候 
兎も角も弁慶はからひ候へ 
畏って候 
いかに静殿 御心の中察し申して候さりながら 世の人口もいかがにつき 
これより都へ御帰りあれとの仰せにて候 
静は君の御別れ 遣る方なさにかき暮れて 涙にむせぶばかりなり 
判官哀れと見給ひて 
まことにこのたび思はずも 落人となり下る身を これまで遙々慕ひ来る志 
返すがへすも神妙なりさりながら 
遙々波濤を凌ぎ下らんこと然るべからず 
まづこのたびは都へ上り 時節を待てとの御言葉 
弁慶共に慰めて 唯人口を思すなり 御心変るとな思し召そ 
いや兎に角に数ならぬ 身には恨みもなけれども 
それは舟路の門出なるに 浪風も静を止め給ふかと 
涙を流し木綿四手の 神かけて変らじと 契りし事も定めなや 
実や別れより勝りて惜しき命かな 君に再び逢はんとぞ思ふ 
いかに弁慶静に酒をすすめ候へ 
畏って候 
げにげにこれは御門出の 行末千代ぞと菊の盃 静にこそすすめけれ 
旅の舟路の門出の和歌 これに烏帽子の候 召され候ひて唯 一と奏と勧むれば
[謡ガカリ] 
立ち舞ふべくもあらぬ身の 袖打ちふるも恥かしや 

〈二上り〉 
伝へ聞く 陶朱公は勾践を伴ひ 会稽山に籠り居て 
種々の智略を廻らして 終に呉王をほろぼして 勾践の本意を達すとかや 
功成り名遂げて身退くは 天の道と小船に棹さして 五湖に楽しむ

〈本調子〉 
かかる事しも有明の 月の都を振り捨てて 西海の波濤に赴き 
御身の科のなきよしを 嘆き給はば頼朝も 
終にはなびく青柳の 枝を連ぬる御契り などかは朽ちし果つべき 
唯たのめ
[謡ガカリ 舞合方]
唯頼め しめぢが原のさしも草 
我れ世の中に在らん限りは かく尊詠の偽りなくば 
やがて御代に出船の 船子共はや纜をとくとくと勧め申せば 
判官も 旅の宿りを出で給へば 
静は泣く泣く 烏帽子直衣脱ぎ捨て 涙に咽ぶ御別れ 見る目もいとど哀れなり 
急ぎ御船を出だすべしと 立ち騒ぎつつ舟子共 
えいやえいや えいやえいやとゆふ潮に 連れて船をぞ出だしける 
あら笑止や風が変って候 
あの武庫山颪弓弦羽が嶽より吹き下す 嵐にこの船陸地に着くべき様もなし 
皆々心中に御祈念候へ 
いかに武蔵殿 この船にはあやかしがつきて候 
ああ暫く 左様の事をば船中にては申さぬ事にて候 
あら不思議や海上を見れば 西国にて滅びし平家の一門 
各々浮び出でたるぞや かかる時節を窺ひて 恨みをなすも理なり 
如何に弁慶 
御前に候 
今更驚くべからず たとへ悪霊恨みをなすとも そも何事の有るべきぞ 
悪逆無道のそのつもり 神明仏陀の冥感に背き 天命に沈みし平家の一類 
主上を初め奉り 一門の月卿雲霞の如く 浪に浮びて見えたるぞや 
[謡ガカリ 早笛合方]
そもそもこれは 桓武天皇九代の後胤 平の知盛幽霊なり 
あら珍らしや如何に義経
[謡ガカリ]
思ひも寄らぬ浦浪の 声をしるべに出船の 声をしるべに出船の 
知盛が沈みしその有様に 又義経をも海に沈めんと 
ゆふ波に浮べる長刀取直し 巴波の紋 あたりを払ひ 
潮を蹴立てて悪風を吹きかけ 眼も眩み 心も乱れて 前後を忘ずるばかりなり 
その時義経少しも騒がず その時義経少しも騒がず 
打物抜き持ちうつつの人に 向ふが如く 言葉を交はし戦ひ給へば 
弁慶押し隔て 打物業にてかなふまじと 数珠さらさらと押揉んで 
東方降三世 南方軍荼利夜叉 西方大威徳 北方金剛夜叉明王 中央大聖不動明王の 
索にかけて祈り祈られ 
悪霊次第に遠ざかれば 弁慶舟子に力を合はせ 
御船を漕ぎ退け汀に寄すれば なほ怨霊は慕ひ来るを 追ひ払ひ祈り退け 
又退く汐に揺られ流れ また退く潮にゆられ流れて 跡白浪とぞなりにける

(歌詞は文化譜に従い、表記を一部改めた)


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本曲は、謡曲(能)「船弁慶」の詞章をほぼそのまま利用してつくられた曲です。
謡曲の「船弁慶」自体が、能の中でも劇的変化に富む見せ場の多い演目ですので、
本曲も場面が次々に展開し、物語としての起伏に富んでいます。
ストーリーには変わりがありませんが、謡曲と比較すると、本曲の詞章では、
帰京を促す弁慶に対して、静が本当に義経の意向なのかと疑う場面や、
義経が静との別れを惜しんで船出を渋る場面などが省略されています。
謡曲の方はよりリアルな人間模様を描いているのに対し、
長唄では細部を省き、静の悲しみと知盛の恨みという純化した感情を中心に描くことで、
より洗練されたドラマになっていると言えるでしょう。
長唄の「船弁慶」にはもう一つ、明治十八年に初演された三代目杵屋正次郎作曲のものがあります。
現在歌舞伎舞踊で演じられるのはこの正次郎のもので、
勝三郎による本曲はもっぱら素唄で演じられることが多いようです。

本曲は、前半と後半に分けることができます。
前半は、頼朝に疎まれ都を離れた義経一行が、同行していた静御前と大物の浦で別れる場面です。
男女の別れの場面では「別れるくらいなら死んでしまいたい」というのが常套句ですが、
突然の別れを告げられた静は、別れよりも命が惜しい、と嘆きます。
義経は必ず世に返り咲くと信じているから。そしていつか再びめぐりあうために、生きていたいと言うのです。
後半は、壇ノ浦の合戦で入水した平知盛の亡霊が現れ、義経を海に引きずり込もうと荒れ狂います。
平知盛は、勇壮ながらも知力に優れ、平家一門の運命を悟った人物として『平家物語』に登場する武将です。
壇ノ浦の合戦では、負け戦と知りながらも、名誉のために戦えと味方を鼓舞し、
騒ぐ女官には冗談を飛ばし、
雑兵をなぎ倒す平教経には「あまり罪つくりなことをするなよ」と諭します。
そして幼い天皇が入水し、戦いの趨勢が決まったところで、「見るべき程の事は見つ」といって、
自らも海の底へ沈んでいくのです。
これらのエピソードから伝わる知盛は、運命に対してとても冷静な視点を持っていて、
とても亡霊になって義経に復讐する人物には思えません。
しかし、これらのエピソードがあまりに有名だからこそ、知盛は壇ノ浦の合戦を象徴する存在となりました。
そのため、壇ノ浦における平家の悲劇性、怨念の集合体として、怨霊として描かれるようになったのでは
ないでしょうか。
このように長唄「船弁慶」の主役は、前半は静、後半は知盛であると言えます。
それなのに、なぜ「船弁慶」という曲名なのでしょうか。
静の悲しみと知盛の恨み。大物浦からの船出にまつわる二つの物語の中心にいるのは、
もちろん義経です。
そして弁慶は、義経の従者。
長唄メモ「橋弁慶」で述べたように、義経と表裏一体の存在です。
本曲において弁慶は、義経とともに二つの物語の中心にいて、
悲しみと恨みという激情を、義経の代わりに受け止める役割を果たしています。
義経のしがらみになりかねない静を切り離し、義経を沈めようとする知盛の霊を調伏し、
万難を排して、落ち行く義経を守り抜こうとするのです。
それが、主従だからです。
本曲の中の弁慶は、静と同じように、義経の明るい未来を信じていたのでしょうか。
それとも、淀川を行く船に揺られながら、二度と都に戻ることはないと感じていたのでしょうか。
例え未来をどう考えていたとしても、主君を守る弁慶の生き様に揺るぎはありません。
むしろ義経を襲う苦難が増えるほどに、その運命の盾となる弁慶の存在感は増していきます。

義経と弁慶の物語は「勧進帳」へと続きます。
滅亡へと続く、主従の旅路の始まりです。



【こんなカンジで読んでみました】
※詞章全体の内容把握を目的としたため、謡曲における地謡詞章を登場人物の台詞に組み込むなど、
 一部に改変を施した。逐語訳と必ずしも一致しない部分がある。

今日思い立って、旅衣を着ることにした。
旅立ちの日は決めた。だが、この都へ帰る日をいつと決めようか、決めることなど、どうしてできようか。

ここにおります私は、西塔のはずれに住む武蔵坊弁慶と申す者です。
さて、わが主君である判官義経殿は、頼朝公の御代理としてかの平家を滅ぼし、天下を平定なさいました。
さすれば頼朝・義経の御兄弟の仲は、太陽と月の様に輝かしく並び立つべきであるというのに、
つまらぬ者の根も葉もない告げ口のせいで、御仲たがいをなさっておりますこと、
返す返すも残念なことであります。
しかしながら義経殿は、兄君への礼節を重んじなさって、ひとまずは都を御退きになると決意なさった。
西国の方へお下りあそばし、時を待って自らに過ちのないことをご嘆願なさるため、
今日夜もまだ深いうちに、淀から御舟にお乗りなさり、摂津国尼崎の大物の浦へと急いでいるのです。

時は文治の初めのころ。
頼朝と義経の不和は、既に決定的なものとなった。
しかたがなく義経は都を落ち、あちらこちらの道をたどって遥か西国へ赴こうと志し、
夜はまだ深く、高い空に月が出ている頃、名残惜しくも都を出た。
先年、平家追討のために輝かしく都を出立した時とは打って変わって、一行はわずか十余人、
ただすごすごと落ちて行く。
心の知れた者ばかりで同じ船に乗り、雲が行き水が流れるように川を下って行く身。
栄華の移ろいやすいのはこの世の常か。
世間の人は何とでも言わば言うがいい。私の心が澄んでいるか濁っているかは、石清水の神がご存じだろう。
と、御神詠で知られる峰の上の八幡宮をふもとから伏し拝み、
川の流れに任せて行けば、旅の心につらさも薄れ、潮が満ちては引き、波が寄せては返す大物の浦に到着した。

義経様に申し上げます。
恐れ多いこととは存じますれど、あの静殿を御供にお連れなさいますこと、今このような時に、
どうにも相応しくはないように思われますので、何卒、ここから都へお帰しになるのがよいかと存じます。
どうなりとも、弁慶、そなたの思うように取り計らうがよい。
かしこまりました。
さて、静殿。義経様をお慕い申すそなたの心中、この弁慶もお察し申し上げております。
しかしながら、世間の人の噂にどのように言われるか危ぶまれますので
ここから都へお帰りなされと、義経様は仰っておいででございます。

静は思わぬ義経公との御別れ、やるせない気持ちをどうすることもできず、涙にむせぶばかりである。
これを見た義経は胸がしめつけられるように思われて、

静よ。このたびは、はからずも落人となって西国へ下るこの身を、ここまで遙々供をしてきたそなたの心は、
返す返すも殊勝なことである。
ではあるが、そなたは女の身。この先続く苦難の浪路を従い来ることは適当ではない。
まずひとたびは都へ帰り、ふたたび時が巡り来るのを待つが良い。

とお言葉をかけた。弁慶も一緒になって静かをなぐさめ、

ただただ、義経様は口さがない人の噂のことをお考えになったのです。
そなたを思うお心が変わったと、思うでないぞ。
いえ、良いのです。ものの数にも入らぬこの身、お恨み申すことなどございませんが、
今は船旅の門出の時、波風が静かなことを祈る時、それなのに、
同じ名を持つわたくし静をおとどめなさるのかと思うと、涙が止まらずに申し上げるのです。
神に誓って変わるまいと約束したことも、ああ、はかないことです。
お別れするのが惜しゅうございます。
けれどそれより本当に惜しいのは私の命。
別れてののちも生き続け、あなた様に必ずもう一度お会いしたいと思うから。
さあ、弁慶。静に酒を勧めなさい。
かしこまってございます。静殿、盃をお取りなされ。
今は義経様ご出立の時、行く末千代までと祝う菊の酒。
そうだ。旅の船路の門出を祝い、歌を所望できまいか。ここに烏帽子がございます。
これをお召しになって、ただ一さしの舞を願いたい。
弁慶殿のお勧めとあれば、立ち舞うほどもない身のこと、ただ恥ずかしくはございますが。
伝え聞いたことでございます。
唐土の陶朱公は、主君である越王匂践を伴って会稽山に籠もり居り、種々の智略をめぐらして、
ついには宿敵呉王を滅ぼし、主君の本望を叶えたと申します。
そののち陶朱公は、功成り名を挙げた上は、身を退くのが天の道と考えて、
小舟に浮かんでは五湖の景色を楽しむ、悠々自適の日々を送ったとのこと。
このようなこともあったということですから、
有明の月が耀く都を自らお捨てになり、西海の波路に赴き、
御身に罪はないということをご嘆願なさったなら、
頼朝公も青柳が風になびくように、最後にはきっとお聞き入れになるでしょう。
枝を連ねたご兄弟の深い絆が、どうして朽ち果ててしまうことがありましょうか。
「ただ我を頼りにするがよい。我がこの世にいるかぎりは、必ずそなたたち衆生を救おうぞ」
この清水観音の御尊詠に偽りがなければ、義経様はすぐにも、ふたたび世に出られることでしょう。

静が舞ううち船出の時刻となった。
舟子たちは早くも船のともづなを解きはじめ「早く早く」とお勧め申し上げるので、
義経も旅宿をご出立になった。
静は泣く泣く衣装の烏帽子と直垂を脱ぎ捨て、涙にむせびながらお別れを申し上げるその様子は、
はたから見ていても、ますます哀れがつのることであった。
急いで船を出した方がよいと舟子たちが立ち騒ぐ。
エイヤエイヤと声をあげ、夕潮の中、一行の乗る船は漕ぎ出したのだった。

はて、面妖なこと。風が変わったようであるぞ。
あの武庫山おろしの風、譲葉が嶽から吹き降ろす嵐に揉まれ、この船は陸地へ着くこともできそうにない。
皆の者、心中で神仏のご加護をお祈りなされ。
ああ武蔵殿、武蔵坊弁慶殿。こ、この船には、あやかしが憑りついているのでございます。
これ、しばらく待たれよ。そのような不吉なこと、船の中では申されぬがよかろうぞ。
なんと、奇怪なことだ。皆の者、海の上を見るがよい。
西海の果て、壇ノ浦で滅んだはずの平家の一門が、それぞれの姿のまま浮かび上がってきたではないか。
おのれ平家の郎党め、このような義経様の悲運を狙って、恨みを晴らそうということか。
のう弁慶。
は、御前にござります。
今更なにを驚くことがある。たとえ平家の悪霊が恨みを抱いて出現したとて、それが何ほどのことぞ。
悪逆非道が積り重なったその結果、神仏のご意向に背いたがゆえ、
天命によって海に沈んだ平家の者どもではないか。
その平家の一門が、幼き天子様をはじめとして、累々と波の上に浮かんで現れおったぞ。

我は桓武天皇九代の末裔、平知盛の幽霊である。
やあ珍しや、これは、義経。
思いがけぬ対面ではないか。浦波の音を頼りに、お主らの声をしるべに現れたのだ。
この知盛が波に沈んだそのように、義経、貴様もまた海の底へ沈めてくれよう。

言うが早いか知盛は、夕波に浮かび現れた長刀を手に取り、巴波のようにあたりを切り払い、
潮を蹴立てて悪風を吹きかけてきた。
船上の侍はみな、眼はくらみ心はみだれて、正体を失うばかりである。
その時、義経は少しも騒がず、刀を抜き放ち、生きている者に対するように言葉を交わして戦われたので、
弁慶はこれを押し隔て、
刀の通用する相手ではあるまいと、手にした数珠をさらさらと押し揉んで、
五大尊明王に心で呼びかけ、不動明王の羂索を頼みのつなに祈念したところ、
知盛の影は次第次第に遠ざかって行く。
弁慶は今ぞと舟子と力を合わせて船を漕ぎ、その場を退き岸辺近くまで漕ぎ寄せた。
なおもすがりくる知盛の怨念、弁慶は退けようと祈り続ける。
やがて知盛は引き潮に揺られ流され、また波に揺られ流され、恨みの声を風に託して、
冷たく暗い海の底へ呑まれていった。
あの日と同じ、後にはただ白波だけが。



【義経 都落ち】

平治の乱後、僧侶になることを条件として幼い命を救われ、鞍馬寺に預けられた源義経であったが、
後に寺を出奔し、奥州平泉の藤原秀衡の庇護を受けた。
異母兄であった源頼朝が治承四年(1180)に平家追討の兵をあげると、その軍に加わり、
頼朝の代官として東国武士を率いて上洛した。
一方、源義仲は、頼朝に応じて平家追討のために挙兵し、平家を都から追い出すことに成功したものの、
都で狼藉を繰り返したため、後白河上皇と対立していた。
義経はまずこの義仲を追討、
ついで後白河上皇より平家追討の院宣を受け、一の谷・屋島・壇ノ浦と続く合戦で大きな勲功を挙げ、
ついに平家を滅亡させるに至った。
しかしこの間に、独断で後白河上皇から検非違使・左衛門尉の任官を受けたことが頼朝の不信を招いた。
また、合戦における当時の戦作法を無視した独断専行が、結果として東国武士の手柄を奪うことになり、
御家人たちは不満を募らせていた。
御家人の不満は、頼朝の東国政権樹立の計画を阻害しかねないものであり、
梶原景時の讒訴もあって、頼朝は義経に対する警戒をますます強めていった。
頼朝は、許可なく朝廷から官位を受けた武士に対して怒りを表明し、鎌倉への帰還を禁じた。
義経はこれを軽視して、捕虜である平宗盛父子を伴って鎌倉へ下向したが、鎌倉へ入ることを拒否される。
相模国腰越から頼朝へのとりなしを依頼する「腰越状」を送るも、ついに認められず、
宗盛父子とともに京へ戻らざるを得なかった。
頼朝が頑ななまでに義経を警戒したのは、京における義経が、
かつての平氏の専横的地位と権力を引き継ぐような動きを見せたからで、
背景には後白河上皇の頼朝・義経離反をもくろむ考えが多分に影響を与えたと思われる。
本曲「船弁慶」のような後世の戯曲では、兄に疎まれた義経の悲劇性がクローズアップされがちだが、
史実における義経は、この時点で頼朝への対立姿勢を明確にしている。
文治元年(1185)10月、京に戻った義経はひそかに後白河上皇に頼朝追討の院宣を要求。
上皇がこれを与えたことで義経の謀反は確定的となり、
このことが伝わると、鎌倉からはすぐに義経追討軍が派遣された。
義経は西国武士の加勢を求めて出京する。これが「義経の都落ち」である。
本曲ではわずか数人が闇にまぎれて出奔したように描かれるが、
『平家物語』巻十二「判官都落」では「五百余騎」、
『義経記』巻四「義経都落の事」では出京時「一万五千余騎」、同船が「五百人」としている。
規模には大幅な違いがあるが、義経の西国行きが反乱の挙兵であったことは確かである。
義経は九州を目指して大物浦から出航したものの、暴風雨によって船は難破、軍勢は四散してしまった。
その後吉野に隠れ、京都周辺の畿内を転々としていたが、探索の目が厳しく、
数名の従者とともに奥州に逃れ、再び藤原秀衡を頼った。
文治三年に入って義経の所在が知られ、頼朝は藤原威に対して義経の引き渡しを要求。
秀衡が死去すると、その息子であった泰衡は頼朝の圧力に屈して義経一行を襲撃し、
義経は奥州衣川の館で死去した。



【平知盛と謡曲「船弁慶」「碇潜」】

平知盛は、清盛の四男にあたる平家の武将である。
仁平二年~文治元年(1152~85)、壇ノ浦合戦の敗北を見届け、34歳で入水した。
『平家物語』では勇壮かつ知力・洞察力の優れた人物として描かれる。
その存在感が特に際だつのは、一族の存亡をかけた壇ノ浦合戦の場面で、
知盛は多くの印象的な言葉を残す人物として描かれる。
巻十一「壇浦合戦」によれば、門司・赤間が関に集まった源氏の船は三千艘、対する平家の船は千余艘。
目に見える劣勢の中で、知盛は次のように一門の武士に檄を飛ばした。 
  いくさは今日ぞかぎり、者どもすこしもしりぞく心あるべからず。
  天竺、震旦にも日本我朝にもならびなき名将勇士といへども、運命つきぬれば力及ばず。
  されども名こそ惜しけれ。東国の者共によわげ見ゆな。いつのために命ば惜しむべき。
どんな名将勇士であっても、運命が尽きれば滅ぶもの。それでも名は惜しい。
源氏の者どもに弱気を見せるな。今日が最後の戦、一体いつのために命を惜しむ必要があるのか。
滅びゆく運命に抗うために戦うのではなく、誇りをもって運命を受け入れて死すために戦う、という
知盛の姿勢が表れた言葉である。
戦が進み、勝機を得た源氏の兵が平氏の船に乗り移り始めると、知盛は御座船(天皇の乗る船)に移り、
「世のなかは今はかうと見えて候」(今はこれまでと見えました)
と言って船中を自らの手で掃除し、騒ぐ女房達には、
「めづらしきあづま男をこそご覧ぜられ候はんずらめ」(珍しい関東の男(=源氏)をご覧になることでしょう)」
と軽口を叩いて見せる。
さらに、武勇の誉れ高い平教経(能登殿)が、全ての矢を射つくし、
なおも大長刀で雑兵を次々に切り捨てる様を見て、
「能登殿、いたう罪なつくり給ひそ、さりとてよきかたきか」
(教経殿、あまり罪つくりなことをなさるなよ、そんなことをしても大した敵ではない、形勢は覆らない)
と声を掛ける。
そして、教経が「死途の山のともせよ」と両脇に源氏の兵を抱えて入水したのを見送って、
「見るべき程の事は見つ」(見届けなくてはならないものはすべて見た)
との言葉を残し、自らも海に身を投げるのである。
壇ノ浦合戦における知盛の振舞いや言葉には、運命を悟りきったものの諦観が見え、
特に近代以降、知盛は『平家物語』作者の代弁者と考える向きが強まった。
壇ノ浦での知盛の死にざまは、その後様々な戯曲・物語に脚色された。
謡曲「碇潜」「船弁慶」や、浄瑠璃『義経千本桜』の「渡海屋・大物浦」がその代表的なもので、
特に「碇潜」「渡海屋」における大きな船の碇を担いで入水する場面がよく知られる。
ただし『平家物語』においては、知盛は入水の際、鎧二着を重ね着して海に沈んでいる。
碇を担いで入水したのは平教盛・経盛兄弟で、知盛ではない。
大碇を担いで入水するというエピソードが、一門の壮絶な最期を象徴するものとして、
知盛の伝記に付加されたと考えられる。


〈謡曲「船弁慶」〉

大永四年(1524)成立。五番目物。作者は観世小次郎信光と考えられている。
『義経記』巻四「義経都落の事」などの伝承を元にした作品で、
室町時代の上演記録が極めて多く、当時からの人気曲と推察される。
前シテは静、後シテは知盛で、それぞれを別人が演じ、前場と後場を弁慶の存在がつなぐ。
登場人物の心理描写よりも劇的展開を視覚的に見せる「風流能」の特色を持つ作品。
(『能を読む』「船弁慶」小誌による)

(あらすじ)
平家追討に武勲を挙げたものの、それを嫉む者が偽りの告げ口をしたことで頼朝に憎まれてしまった義経は、
弁慶ら従者とともに都を落ち、摂津国尼崎大物の浦(だいもつのうら)に着く。
弁慶は義経が伴っていた愛妾・静かを都へ帰すよう進言する。
静は悲嘆に暮れながらも承知し、義経の前途を祈って舞う。
義経らが出航すると天候が急変し、荒波で陸地へ戻ることもできなくなる。
海上に西海で滅んだ平家一門の亡霊が現れ、平知盛の霊が義経に襲いかかる。
刀で戦う義経をおしとどめ、弁慶は懸命の祈りで亡霊を退ける。


〈謡曲「碇潜(いかりかづき)」〉

成立年未詳(室町末期か〔『謡曲大観』による)、作者未詳。
『平家物語』『源平盛衰記』を下敷きに、平知盛の最後を描いた作品。
修羅能(二番目物)として扱う場合と切能(五番目物)として扱う場合があり、後場に大きな違いが見られる。
また流派によっても詞章に大幅な差異がある。

(あらすじ)
都の僧が、平家一門を弔うために長門国早鞆浦(壇ノ浦)に下る。
乗り合わせた舟を操る漁師に源平合戦の様子を語ってほしいと所望すると、
漁師は壇ノ浦での平教経たちの最後の様子を語り、自分も平家一門の幽霊のひとりであると告げて姿を消す。
僧が弔っていると、平知盛の幽霊が現れ、長刀を打ちふるって修羅と激しく戦った末、
大碇を背負って海底に沈んでいく。



【語句について】
※『新編日本古典文学全集59 謡曲集2』所収の「船弁慶」頭注を参考にした。

今日思ひ立つ旅衣 帰洛を何時と定めん
 「思ひ立つ旅」と「旅衣」を掛けた表現。
 また「立つ」には「裁つ」、「帰洛」には「着」が掛かり、それぞれ「衣」の縁語。
 「帰洛」は都へ帰ることで、特に流人など、都を追われた人について言う。

判官
 検非違使尉の通称だが、義経がその職にあったことから、もっぱら義経の別称。
 なお義経については長唄メモ「鞍馬山」、『長唄の世界へようこそ』「勧進帳」参照。

頼朝の御代官として平家を亡ぼしたまひ 
 義経が頼朝の名代として平家との合戦の多くで指揮をとり、平家滅亡に多大な功績を挙げたことを言う。

御兄弟の御仲日月の如くに御座候ふべきを 
 「日月」は1.太陽と月。 2.歳月。
 ここでは1で、頼朝と義経は太陽と月のように、ともに輝かしく並び立つべきであるのに、の意。

言ひがひなき者の讒言
 「言ひがひなき(言ふかひなし)」は取り立てて言うほど価値のないさま。
 文脈に応じて、幼稚である、風情がない、取るに足りない、卑しい、ふがいない、などと訳される。
 ここでは「取るに足りない者」の意で、具体的には梶原景時のこと。
 「讒言」は、偽って人を悪く言うこと。告げ口、中傷。

都を御開きあって 
 「開く」は「割る」「砕く」「退く」の忌み言葉として用いられる。
 ここでは「退く」の意で、武家でよく用いられた忌み言葉。

御身に過なき通りを 御嘆きあるべき為に
 「過(あやまり)」は、道理から外れたこと、正しくないこと。
 「嘆き」は1.思い通りにならなかったり簡単したりしてため息をつくこと。嘆息。
 2.悲しみにひたること。悲嘆。 3.切に願うこと。嘆願。
 ここでは3。

夜をこめ
 まだ夜が明けず、夜明けまで時間がある間に。

淀より御船に召され 津の国尼が崎大物の浦へと急ぎ候
 「淀」は現京都市伏見区の西南部。
 淀川につながる宇治川と桂川に挟まれた地域で、古くは水路交通の要所だった。
 「津の国」は摂津国(現兵庫県)。淀から船で淀川を下り、摂津国尼崎の大物浦へ赴いたということ。
 「大物の浦」は尼崎の港。
 現尼崎市大物は内陸だが、かつては摂津国神崎川の河口に位置し、平安時代末期以降港として発達した。
 平清盛が摂津国福原に都を遷してからは、京都と福原を往還する船の寄港地であった。
 『平家物語』巻十二「判官都落」では、頼朝との対立が激化した義経が大物から西国をめざして出港するも、
 西風のために難船し再起の夢を断たれる。以降大物は、義経遭難の地として定着した。
 『平家物語』の一部伝本(延慶本)では、
 義経が屋島合戦に向かった船出の地を史実とは異なる大物に設定しており、
 栄光の船出と都落ちの難船との対比を意図的に描いたと考えられている。

頃は文治の初つ方
 『義経記』等によれば、義経の都落ちは文治元年(1185)の十二月。
 なおこの時、義経は26歳、弁慶は34歳(諸説あり、伝承による。特に弁慶は史実上の生年未詳)。

不会の由
 「不会」は「不和」と同義。気持ちなどがしっくり合わないこと、仲が悪いこと。

落居し
 1.物事の決まりがつくこと。問題が解決して騒ぎなどが収まること。
 2.病状が落ち着くこと。平静になること。 3.裁判の判決が出て訴訟が終結すること。
 4.落城すること。
 ここでは1で、頼朝と義経の不仲が決定的となったことを言う。

都ををちこちの
 「都を落ち」と「遠近(おちこち)」を掛けた表現。

まだ夜深くも雲井の月 出づるも惜しき都の名残 
 「月出づる」と「出づる都」を掛けた表現。
 「雲井(雲居)」は1.雲のある所、大空。 2.雲。 3.雲のかかっている遥かかなた。4.禁中。
 また、後の「都」の縁語。

さも疎からぬ友船の
 「さも」は1.そうも。 2.いかにも。 3。まったく。実に。
 「疎し」は1.親しい間柄でない。疎遠だ。 2.親しみが持てない。わずらわしく思う。
 「さも疎からぬ友」で、「実に親しくなくはない友」、つまり親しい間柄で、の意。 
 また「友舟」が掛かった表現。
 「友舟」は1.連れ立って航行する船。片舟、類船。 2.同じ船に乗ること。また、相乗りの船。
 史実では複数の船で出航したと思われるが、本曲中では2の意で解釈した。

上り下るや雲水の 身は定めなき習ひかな
 「雲水」は、謡曲では「くもみず」、長唄では「うんすい」。「うんすい」の場合、
 1.雲と水。 2.所定めず諸所を遍歴する禅僧。 3.2から転じて、遍歴すること。またその人。
 などの意味があるが、ここでは単に1と解釈するのが適当。

〔世の中の人は何とも石清水……澄み濁るをば神ぞ知るらん〕
 石清水八幡の神詠(神が詠んだ歌)と伝わる。
 「世間の人は何とでも言わば言え、私の心が澄んでいるか濁っているかは、神様がご存じだろう」の意。
 石清水八幡宮は、京都盆地の西部、淀川左岸の男山に鎮座する神社。
 平安京の南西、裏鬼門にあたる。
 宇佐八幡宮の託宣を受けて勧請されたと伝わる。
 伊勢神宮とともに二所宗廟(皇室の祖先の霊を祀ってあるところ)として、朝廷や武家の信仰を集めた。
 特に八幡を氏神とする源氏にとってはゆかりの深い神社。

高き御影を伏拝み
 男山の上にある石清水八幡宮をふもとから参拝したということ。

潮も浪も共に退く
 「潮(うしお)」には「憂し」の意を含ませる。
 また、『新編日本古典文学全集 謡曲集2』頭注に拠れば、「引く」は次の大物の縁語。


 静御前とも。源義経の妾で、もとは京の白拍子(白拍子については長唄メモ「島の千歳」参照)。
 母である磯の禅師もまた高名な白拍子であったという。
 義経が平家追討を成し遂げ、京に邸を構えた頃より寵愛を受けるようになったと考えられる。
 静に関する記録や伝承には作品によって相違点が多く、どれが真実であるか不明な点も多い。
 本曲の元になった謡曲「船弁慶」では、静は義経と大物浦で別れたことになっているが、
 歴史書『吾妻鏡』によれば、静は天王寺で義経と別れ、その後再会し、吉野山へ従う。
 義経はこの吉野山から静を都へ帰そうと供をつけて送るが、供が裏切り、静は山中に置き去りにされた後、
 蔵王堂の者に助けられ、京都守護職であった北条時政(頼朝側)の元へ送られたという。
 静は頼朝の命令で母磯の禅師とともに鎌倉へ送られ、頼朝・北条政子の鶴岡八幡宮参詣の折、
 舞楽を奉納するよう命じられる。この時静が舞ったのが、有名な
 「よし野山みねのしら雪ふみ分けていりにし人のあとぞこひしき」
 「しづやしづしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな」 
 という、義経を恋い慕う歌であった。この時静は、義経の子供を身ごもっていたと伝わる。
 静は男児を出産するが、子は頼朝の命令で由比の浦に捨てられた。
 その後の静の消息は不明である。

世の人口もいかがにつき
 「人口」は、世間のうわさ。
 「世間の人の噂にどのように言われるか危ぶまれますので」の意。
 結果や成り行きを危ぶむ疑問形のかたちをとり、婉曲に批判している文脈。

遣る方なさにかき暮れて
 「遣る方なさ」は「遣る方なし」の名詞形。心のわだかまりを晴らす方法のなさ。どうしようもなさ。
 「かき暮る」は、1.(涙で)目の前が暗くなったように,何も見えなくなる。
 2.(空が)急に暗くなる。 3.(悲しみで)心が暗くなる。 ここでは3の意。

御心変るとな思し召そ 
 「な……そ」は禁止を表す呼応の副詞、「……するな」。
 ここでは、義経が静を帰そうとするのは、世間の口さがないうわさに上るのを避けるためなのだから、
 義経の情けが変わったなどとはお思いなさいますな、の意。

いや兎に角に数ならぬ 身には恨みもなけれども 
 「兎に角(とにかく)に」は、1.何やかや。あれこれ。 2.いずれにせよ。何はともあれ。とにかく。
 ここでは2の意。
 「数ならぬ身」は静が自分を指して言う表現で、ものの数に入らない身。

それは舟路の門出なるに 浪風も静を止め給ふかと 
 「浪風も静」と人名の「静」を掛けた表現。
 船旅の出発であるので、波風が静かであることを祈るべきだが、
 その同じ名の「静」である私をここで引きとめなさるとは、の意。

涙を流し木綿四手の 
 「涙を流し言ふ」と「木綿四手(ゆうしで)」を掛けた表現。
 「木綿四手」は楮などの樹皮の繊維でつくった四手(しめ縄などに垂れ下げるもの)のこと、
 またそれを垂れ下げること。
 「木綿四手の」で「神」を導く語であるので、ここでは特に訳出しなくてよい。

実(げに)や別れより勝りて惜しき命かな 君に再び逢はんとぞ思ふ 
 「別れよりまさりてをしきいのちかな君にふたゝび逢はむと思へば」(『千載和歌集』巻七離別歌
 477番歌・藤原公任」の上の句による表現。
 「別れよりも、今は命の方が惜しく感じられる。生きて再びあなたに逢おうと思うから」の意。

行末千代ぞと菊の盃 
 「千代ぞと聞く」と「菊の盃」を掛けた表現。
 「菊の盃」は「菊酒」と同義。菊の花を浸して飲む酒。また重陽の節句の際に用いる酒。
 菊水の故事により、不老長寿を願って飲まれる。
 ※菊水の故事・中国河南省にある白河の支流で、崖の上の菊の露を飲んだ者が長命したという話。
  謡曲「菊慈童(枕慈童)」に詳しい。

立ち舞ふべくもあらぬ身の 袖打ちふるも恥かしや 
 「もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖うちふりし心知りきや」(『源氏物語』「紅葉賀」)
 による表現。「べく(べし)」は可能の助動詞で、
 「愛しい人と別れるつらさに立ち舞うこともできないほどのこの身」の意。

〔伝へ聞く 陶朱公は勾践を伴ひ……五湖に楽しむ〕
 「会稽の恥」で知られる中国春秋時代の故事に基づく表現。
 「勾践」は春秋時代の越王で、「陶朱(公)」はその家臣范蠡(はんれい)の退官後の名前。
 越の王勾践が呉の王夫差と会稽山で戦って大敗し、恥辱を受けたが、
 後に范蠡とともに会稽山に籠もって夫差を破り、恥をすすいだ。
 転じて「会稽の恥」は敗戦の恥辱、他人から受けるひどい恥辱を言う。
 范蠡は退官後に陶朱公と名乗り、隠遁したという。
 「五湖」については詳細不明。『新編…全集』頭注は「太湖か」、
 『謡曲を読む』注は「五つの湖なのか、一つの湖の名称なのかよくわからない」としている。
 なお、頼朝に鎌倉入りを拒絶された際、義経が弁明のために書き送ったという「腰越状」の中にも
 会稽の故事に基づく表現があり、本作との連関性が興味深い。

終にはなびく青柳の 枝を連ぬる御契り 
 「終に(つひに)」は1.しまいに。最後に。 2.(多く打消の語を伴って)最後まで。
 3.(下に打消の語を伴って)まだ一度も。いまだに。
 「なびく」を受け、また次の「枝」を導くために「青柳」と言う。
 「枝を連ぬる」は「連枝」を読み下した語で、兄弟姉妹のこと。特に高貴な人について言う。

などかは朽ちし果つべき 
 副詞「などか」に係助詞「は」がついたかたちで、強い疑問・反語を表す。
 ここでは反語で、「なぜ朽ち果ててしまうことがあるだろうか、いや、そんなことはない」の意。

〔唯頼め しめぢが原のさしも草 我れ世の中に在らん限りは〕
 『沙石集』に清水観音が詠んだ歌として伝わる
 「ただ頼めしめぢが原のさしも草われ世の中にあらん限りは」の引用。
 『新古今和歌集』『袋草紙』では、初句が「なほ頼め」、四句が「わが世の中に」。
 「しめぢが原」は歌枕で、現栃木県伊吹山のふもとの原、よもぎの名所。「さしも草」はよもぎのこと。
 「しめぢが原のさしも草」はお灸のことで、和歌では「燃ゆる」などを導く序詞として用いられる。
 衰弱した女に示した歌(『袋草紙』詞書)、「胸を焦がすほどの悩みがあったとしても」の意、
 単に一切衆生を示す意など、解釈には諸説あるが、全体の歌意としては、
 清水観音が「ただ私の頼りにしなさい、私がこの世にある限りは」と衆生救済を示すもの。

かく尊詠の偽りなくば 
 「尊詠」は他人や神仏を敬って、その詠んだ歌を言う語。ここでは前の清水観音が詠んだという歌を指す。
 「このように詠まれた御歌に偽りがなければ」。

やがて御代に出船の
 「御代に出(る)」と「出船」を掛けた表現。
 すぐに義経が再び世に出る機会があるだろう、という静の希望を表す。

纜(ともづな)をとくとくと勧め申せば 
 「纜」は舟の船尾をつなぎ止める綱。
 「纜を解く」と「疾く疾く(とくとく)」を掛けた表現。「疾く」は早く。

いとど
 1.いよいよ、ますます、いっそう。 2.その上さらに。

あら笑止や風が変って候 
 「笑止」は、1.異常な出来事。特に、奇怪なこと、不吉なこと、良くないことについて言う。勝事。
 2.困ったこと、困惑するようなできごと。
 3.気の毒な事、同情すべきこと、痛ましいこと。 ここえは1の意。

武庫山颪弓弦羽が嶽より吹き下す 嵐
 「武庫山」は摂津国武庫郡(現兵庫県神戸市)にある六甲山の異称。
 「颪(おろし)」は、山など高所から下へ向かって風が吹くこと。また、その風。
 秋冬の頃、山腹の空気が冷えて吹き降ろす風。
 すなわち「武庫山颪」は「六甲おろし」と同。
 『義経記』では「頃は十一月上旬の事なれば……」と季節が明示されている。
 「弓弦羽が嶽」は、現兵庫県丹波市の譲葉山。一説には淡路島の譲葉が嶽かとも(『能を読む』注による)。

いかに武蔵殿 この船にはあやかしがつきて候 
 義経・弁慶とともに船に乗った従者の言葉。
 「あやかし」は1.海に現れる妖怪。あやかり。 2.不思議であやしいこと。また、広義に妖怪全般。
 3.能面のひとつで、男性の怨霊を表した男面。「船弁慶」「碇潜」「鵺」などの後ジテに用いる。
 4.愚か者。馬鹿者。
 ここでは1で、平知盛の幽霊を指す。

桓武天皇九代の後胤 平の知盛幽霊なり
 桓武天皇は第五十代の天皇で、平氏は桓武天皇の第五皇子・葛原(かずらはら)親王を祖とする。
 平知盛は清盛の四男で、桓武天皇から数えると正しくは十三代目の子孫。
 『謡曲集2』頭注では、『平家物語』巻一で平清盛について述べた
  「葛原親王、九代の後胤、讃岐守正盛が孫(葛原親王の九代の子孫である正盛の孫)」
 の影響を受けた表現かとしている。
 平知盛については【平知盛と謡曲「船弁慶」「碇潜」】参照。

かかる時節
 このような時。具体的には、源平合戦の頃とは形勢が逆転した、義経にとって悲運の時。

そも何事の有るべきぞ
 いったい何ほどのことがあろうか。

悪逆無道のそのつもり
 「悪逆無道」は、度の過ぎた悪逆であること。道に背いたひどい行いであること。「悪逆非道」とも。
 「つもり」は、積り重なった結果。

神明仏陀の冥感に背き
 「神明仏陀」は神と仏、
 「冥感(みょうかん)」は「冥応」とも。
 1.それとはっきりわからないかたちで報いがあること。
 2.冥々のうちに神仏が感応して、加護や利益を与えること。神仏が祈願に応じて助け導くこと。
 ここでは1だが、より広義に「神仏のご意向」程度の意か。

一門の月卿雲霞の如く
 「月卿」は公卿のこと。宮中を天に、天皇を日に、公卿を月になぞらえた言い方。
 ここでは、平家一門で高位についていた者のこと。
 また同義の「月卿雲客」という言い方に掛け、「雲霞の如く」という。
 大衆や兵士などが、雲やかすみが湧き上がるように多く群がり集まるさま。

声をしるべに出船の
 「しるべに出づ」と「出船」を掛けた表現。
 「しるべ(導・知辺)」は 1.道案内・道しるべ、また道案内をする人。 
 2.「しるべする」で知識や行動などについて、うまくいくように導くこと。またその人やもの。 
 3.結論を導く根拠や手がかり。 4.ゆかり、またゆかりある人。
 ここでは3.の意で、知盛の亡霊が波音をめじるしとして出現したことを言う。

巴波の紋 あたりを払ひ 
 「巴波の紋」は巴紋のこと。尾を長く引いた曲線の円頭を大きく表現した文様の総称。
 波頭を図案化したという説から、巴波の紋とも呼ばれる。
 転じて、刀や長刀などをくるくると振り回すさまを例えて言う。

前後を忘ずるばかりなり 
 「前後」はここでは、周囲の物事や出来事の状況のこと。
 「前後を忘ずる」は、自分の置かれている状況がわからなくなる。また,正体がなくなる。

打物
 1.砧で布や絹織物を打ってつやをだすこと。またその布。
 2.(打ち鳴らすものの意で)小鼓・大鼓・鞨鼓などの打楽器の総称。
 3.(打ち斬るものの意で)刀剣、長刀、槍などの武器の総称。 ここでは3で、義経の刀。

うつつの人
 現実世界の人。生きている人。前の「あやかし」に対して言う。

索にかけて祈り祈られ 
 「索」は前出の五大尊明王のうち、不動明王が手に持つ羂索(けんさく)。
 明王に祈念すること。

又退く汐に揺られ流れ……跡白浪とぞなりにける
 知盛をはじめとする平家の亡霊が、波の彼方に流されて消えていくということ。



【成立について】

明治三年(1870)成立。作曲二代目杵屋勝三郎。
吾妻能狂言※のために、日吉吉左衛門の依頼を受けて、
元観世流の太鼓打ちであった囃子方・藤舎芦船と相談して作曲したという。
詞章は一部文言の省略をのぞいて、ほぼ謡曲「船弁慶」をそのまま踏襲する。
ほとんど素唄で演奏される。

本曲のほかに、明治十八年(1885)十一月新富座で初演された同名曲がある。
作曲三代目杵屋正次郎、作詞河竹黙阿弥、「新歌舞伎十八番」のひとつ。
こちらも能の本行通りを歌舞伎舞踊にうつしたもので、内容も謡曲通りだが、
詞章は新作されている。
能では別人が演じる前シテの静と後シテの知盛を九代目団十郎が二役で演じ好評を得たが、
客は不入りであったと伝わる。

※吾妻能狂言
吾妻能狂言は、明治時代の初め、日吉吉左衛門ら一部の能楽師が創始した新しい芸能。
江戸時代には幕府の式楽として保護されていた能楽だったが、幕府滅亡によって後ろ盾を失い、
存続の危機に陥っていた。
日吉吉左衛門は、能楽存続のため、それまで高尚なものだった能楽をより大衆化することを目的とし、
二代目杵屋勝三郎やその他三味線音曲関係者の助力を得て、
能楽に三味線音楽を取り入れた吾妻能狂言を創始して、新しい観客の創出に努めた。
(詳細は『長唄の世界へようこそ―読んであじわう長唄入門』「靭猿」参照)



【参考文献】

飯塚恵理人「幽玄へのいざない四 《船弁慶》試解―義経の「都落」を中心に―」『紫明』21号、2007.9
伊海孝充「長刀を持つ知盛の成立―〈碇潜〉〈船弁慶〉をめぐる試論―」『能楽研究』32号、2008.3
市古貞次校注・訳『新の円日本古典文学全集45・46』小学館、1994.6
乾克己ほか編『日本伝奇伝説大事典』角川書店、1986.10
梅原猛・観世清和監修『能を読む4 信光と世阿弥以後』角川学芸出版、2013.8
大津雄一ほか編『平家物語大事典』東京書籍、2010.11
樹下文隆「室町後期の能に見る漢籍摂取―〈船弁慶〉の陶朱公故事をめぐって―」『中世文学』59号、2014.6
小林責ほか編『能楽大事典』筑摩書房。2012.1
小林美和「謡曲『船弁慶』の周辺とその底流」『帝塚山大学短期大学部紀要』39号、2002.2
小山弘志・佐藤健一郎校注・訳『新編日本古典文学全集59 謡曲集2』小学館、1998.2
国史大辞典編集委員会『国史大辞典』吉川弘文館、1992.4
片野達郎・松野陽一校注『新日本古典文学大系10 千載和歌集』岩波書店、1993.4
佐成謙太郎編『謡曲大観1』明治書院、1963.12 ←「碇潜」
長唄総合研究会「船弁慶」『芸能』通巻194号、1975.4
峯村文人校注・訳『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』小学館、1995.5