八 犬 伝
明治十年(1877)

作曲 三代目 杵屋正次郎
義実別れの段

〈本調子〉 
追うて行く 季基 声かけ呼び止め 
しばし義実うけたまはれ 京鎌倉を敵と引き受け 二心なき必死の覚悟理なれども 
我教訓に従ひて この場を遁れ落ち行くとも 何かは恥ずることあらんや 
汝知らずや足利持氏ぬしは 譜代相伝の主君にあらず 
そも我が祖は一族たる 新田義貞朝臣に従ひ 元弘建武に戦功あり 
しかりしより 新田の余類 南朝の忠臣たれども 明徳三年冬の初めに 南帝入洛ましまして 
頼む樹の下雨漏りしより 心ならずも鎌倉なる 足利家の招きに従ひ 主君と仰ぎ奉り 
亡父とともに勤仕たりしが 今幼君の為に死す 志は致したり これらの理義をわきまへず 
ただ死するをのみ武士と云はんや 学問もその甲斐なし かくまで云ふを用ひずば 
親とな思ひそ子に非ずと 言葉せばしくいきまき給へば 
義実道理に責められて 思わず馬のたてがみへ 落とす涙は道芝に 結ぶが如き本の露 
末の雫と親と子が 後れ先立つ生死は 彼の楠公が桜井の駅路より 我が子の正行返したる 
心と同じ忠魂義胆 かく有りけんと思いやる 折りしも聞こゆる鬨の声 
こなたへ進む敵軍を 季基きっと見返りて 早々落ちよ三人の者 時移りてはかなはじと 
思う事さへ予てより 心得させし譜代の郎党 杉倉木曽之助氏元 堀内蔵人貞行らに 
目配せをしてければ 両人等しく身を起こし 我々御供仕らん いざさせ給えと両人手早く 
義実の馬の轡を引き廻らし 氏元貞行左右より 手綱にすがり愁然と 親子主従一世の名残 
涙にくるる黄昏を 告ぐる無常の遠寺の鐘 心は矢猛気は張弓 急ぐとすれどはかどらず 
姿見返り見返り 恩愛の風に寄せ来る攻め太鼓 進まぬ駒に鞭打ちて 西をさしてぞ 落ちて行方や峰の白雲