新曲浦島
明治三十九年(1906)二月
作詞 坪内逍遥
作曲 五代目 杵屋勘五郎
[一声] 
寄せ返る 神代ながらの浪の音 塵の世遠き調べかな
〈本調子〉[大薩摩]
それ渤海の東幾億万里に 際涯(そこひ)も知らぬ谷あるを 名付けて帰墟というとかや 
八紘九野の水尽くし 空に溢るる天の河 流れの限り注げども 
無増無減と唐土の 聖人がたとへ 今ここに 見る目はるけき大海原 
北を望めば渺々と 水や空なる沖つ浪 
煙る碧の 蒼茫と 霞むを見れば三つ 五つ 溶けて消えゆく片帆影 
それかあらぬか帆影にあらぬ 沖の鴎の むらむらぱっと 立つ水煙 
寄せては返る 浪がしら 
その八重潮の遠方(をちかた)や 実にも不老の神人の 棲むてふ三つの島根かも 
さて西岸は名にし負ふ 
〈三メリ〉 
夕日が浦に秋寂びて 磯辺に寄する
〈本調子〉 
とどろ浪 岩に砕けて 裂けて散る 水の行方の悠々と 
旦に洗ふ高麗の岸 夕陽もそこに夜の殿 
〈二上り〉 
錦繍の帳暮れ行く中空に 誰が釣舟の 玻璃の燈し火白々と 
裾の紫色褪せて また染めかはる空模様 
あれ何時の間に一つ星 雲の真袖の綻び見せて 斑曇(むらぐも)り変はるは秋の空の癖 
〈三下り〉 
しづ心なき風雲や 蜑の小舟のとりどりに 帰りを急ぐ 櫓拍子に 
[船唄] 
雨よ降れ振れ風なら吹くな 家の主爺は舟子ぢゃ 
風が物言や ことづてしよもの 風は諸国を吹き廻る 
船歌絡(かが)る雁がねの 声も乱れて浦の門に 岩波騒ぐ夕あらし 
すさまじかりける風情なり

(歌詞は文化譜に従い、表記を一部改めた)


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ここに「新曲浦島」のほんの一部をYouTubeで紹介しています 見られない方はこちらへ


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明治三十七年、日本は大国ロシアとの戦争に突入しました。
日本軍は多数の犠牲者を出しながらも、陸軍の奉天会戦、海軍の日本海海戦と勝利を重ねていきます。
世界中が信じられない思いだったでしょう。
ほんの四十年前まで、閉ざされた国の中で髷を結って刀を差していたのがまるで夢のように、
日本は急激に国力を高め、列強と呼ばれた国々と肩を並べようとしていたのです。
一方、文化の面ではどうだったでしょう。
残念ながら、まだまだ欧米には遠く及ばない――。そう考えたのが、坪内逍遥です。
折しも当時の日本は、空前のワーグナーブーム。オペラが世間の注目を集めていた時期でした。
逍遥は「新楽劇論」を発表し、日本古来の伝統的音楽をいかしながら、
西洋のオペラに負けない新しい独自の音楽劇をつくるべきだと主張します。
その考えを具現化したものとして発表されたのが、楽劇「新曲浦島」でした。
人々を驚かせたのは、内容よりもその音楽構成。
長唄、謡曲、一中、竹本、常磐津、雅楽などのありとあらゆる伝統邦楽に、
西洋音楽まで取り入れた壮大な計画だったのです。
本曲「新曲浦島」は、この壮大な音楽劇の序の幕の、さらにプロローグにあたる前曲の部分のみを、
長唄だけで演奏したものです。
劇全体の内容は浦島伝説によるものですが、前曲部分には浦島太郎は登場しません。
遥かに雄大な大海原の様子から、物語の舞台となる漁村の様子に至ったところで終わっています。
既存のフレーズにとらわれない節や合方、船歌の唄い方。
それまでの長唄とは大きく異なる詞に、作曲や歌い方にはさまざまな工夫があったと伝えられます。
結局、逍遙が存命中に、この音楽劇が全編を通して実際に上演されることはありませんでした。
その意味では、楽劇「新曲浦島」は絵に描いた夢に過ぎなかったのかもしれません。
しかし、逍遙の熱い想いの一部から生まれた本曲は、その後長く愛され、近代を代表する長唄となりました。



【こんなカンジで読んでみました】

寄せては返す波の音は、神代の大昔から変わらずに響く。俗世などまるでおきざりにして――。
渤海の東、幾億万里も進んだ先に、尽きることのない深い谷があるという、それを帰墟と呼ぶという。
天上天下の水を尽くし、空に溢れる天の川の流れまで注ぎこんだとしても、
増えることも減ることもないと語った唐土の聖人のたとえ話そのままに、遥かにつづく大海原。
北を見やれば果てしなく、沖の波が海と空とをひとつにする。
青々と霞む景色の向こう、船の帆影がぼやけて消えた。
ちがうのか、船ではないのか。鴎が一斉に飛び立った、その水煙がすべてを彼方に隠すのか。
寄せては返す波の音、その潮路の遥か先に、不老の仙人が住むという三つの神の島があるのかもしれない。
西の岸は浦島伝説で名高い丹後国の夕日が浦。
秋ふけゆく磯辺。
砕け散る大波は悠々と、朝には高麗の岸を洗う。夕日も、夜にはそこへ寄って休むのだとか。
錦のとばりを下ろして暮れゆく中空に、水晶のように光る月は、誰があやつる釣り舟の灯火だろう。
紫の裾が色あせたかと思うと、空はまた様子を変える。
いつの間にか、ひとつ宵の明星が、雲の袖のほころびを教えた。
むらぐもり、秋の空はめまぐるしく動き、落ち着きのない風雲に漁夫達の舟はあたふたと、
帰りを急ぐ櫓拍子にあわせてきれぎれに――
「雨よ降れ降れ風なら吹くな、私の亭主は船乗りだから。言葉が分かる風ならば、私の想いを届けておくれ」
遠く歌声きれぎれに、縫い合わせるように雁が鳴く。
それすら風に乱されて、岩に波風打ち寄せる、ものわびしい漁村の夕景。



【坪内逍遙の「新楽劇論」と楽劇「新曲浦島」】

「新楽劇論」
坪内逍遙による演劇理論書。明治三十七年(1904)十一月刊。
西洋の歌劇文化にならい、日本の楽劇を進歩させて独自の新芸術を創造すべきだという考えをまとめた書。
逍遙は、芸術の刷新は国家主義的に教導されるのではなく、芸術が自主的に進歩するべきだと考えた。
本書の中では、日本古来の楽劇として「能楽」「浄瑠璃」「歌舞伎所作事」を挙げ、それぞれの長所とともに
問題点を指摘し、これらを融合させ発展させることを論じている。

楽劇「新曲浦島」
新舞踊劇。明治三十七年十一月、「新楽劇論」を具体化した作品として刊行された。
話の筋は概ね浦島伝説に基づいたものだが、邦楽の歌い物、語り物、雅楽器や西洋音楽を融合させた
大がかりな音楽構成が計画されていた。
ただし、逍遙自身が

  畢竟何も無しでは、論(筆者注:「新楽劇論」のこと)が全くの空談になるから、言はば粗末な下画を見せた
  までです。ほんの試、ほんの瀬ぶき、輪郭だけを画いて見たやうなもの。
  私の国劇改良意見の添物に過ぎぬのです


と述べるとおり、この戯曲は実際の上演が予定されてつくられたものではなく、あくまで逍遙の試作であった。
逍遙は劇中での存在や性格に合わせて登場人物の各々に長唄・謡曲などの音楽を割り当てたため、
実際の演奏の面では音楽的調和をとることが事実上不可能と言えた。
戯曲全体は「曲(きょく)」と「白(せりふ)」で構成され、
・曲は劇中人物の語のみで構成し、叙景等のいわゆる地の文を廃す
・白は役者が通常通り話す「常の白」と、曲と白の中間的な「曲の白」に分け、ゆくゆくは
 「曲の白」中心にしたい
など、歌劇(オペラ)を強く意識した構成であった。
全編を通して上演されることはなかったが、
明治三十九年(1906)二月の文芸協会発会式において序之幕の前曲部分が長唄のみで演奏された他、
明治四十年に文芸協会第二回公演で序之幕四段が、
大正三年(1914)に狂言座第一回公演で中之幕が上演された。

また2007年、東京藝術大学において全編改訂の上「新曲『浦島』」として上演された。



【作曲の苦心、船唄の工夫】

「新曲浦島」の詞は戯曲の一部として逍遙が工夫をこらして綴ったものであっただけに、
掛詞や縁語を多用した和文的な長唄の詞章とは大きく異なるものであった。
それまでの長唄の歌詞とは雰囲気の全く異なる詞章に対して、長唄界の賛否はさまざまであったと推察できる。
昭和八年に発刊された雑誌『長唄の日本』三号は、特集として「新曲浦島の研究」を組んでいるが、
例えば小谷青楓は、「新曲浦島」の人気を認めつつも、「歓迎される位だから、マア名曲の部なのでせう」と、
言外に批判的評価をにじませている。
またこの特集に寄稿された各人の聞き書きや思い出話には、
それまでの長唄と雰囲気の異なる歌詞に対して、作曲にさまざまな苦労があったことが次のように伝わる。

  全く従来の長唄に見ない、新型式の難解な文章であつた事は、その頃の斯界を驚かした
  (高澤初風「新曲浦島船歌の苦心」)

  先生(注:坪内逍遥)御作の作曲に就て、何處か海辺で、気分を得たいと近くの適当な場所を物色
  いたして居りました処、幸ひ上総の木更津在の漁家に知人がありましたので、早速泊りがけで同地へ
  師匠(注:勘五郎)の御供をして参りました。折よく好天気に恵まれて、東京湾の夕陽、芙蓉の姿
  クツキリと其風光、誠に結構でしたので、其時のヒントから、アノ「錦繍の帳」が出来たので
  御座います(杵屋五三郎「新曲浦島 作曲当時の思ひ出」)

  私が生来の悪口で「新浦島を聞いてると、何んだか芝居へ行つて、下座の合方のよせ集めを聞いて
  居る様で、さつぱり面白くないぢやありませんか」と云ひましたら「さうなんです、
  自分でも気がさすんですが、作者の御注文ですから仕方がありません。最初つけた手は、
  もつともつと大間なもので、自分ながらうまく出来たと思つたので、先生の所へ行つて弾きましたら、
  御気に入りませんから、帰つてきて、手は其儘にして、早間にしたら納まりました。(後略)
  (大槻古典「新曲浦島と其作曲者」)




【語句について】

神代ながらの
 「神代」は「神世」とも、神が統治し活動していたという、人の世に先立つ時代。転じて、古い時代、昔。
 「ながら」は接続助詞。ここでは体言の下につき、そのありさまや状態を変えないである動作が
 行われることを示す。
 「神代と変わらず響く(聞こえる)浪の音」の意。

塵の世  けがらわしいこの世の中。濁世。俗世界、憂き世。

〔それ渤海の東幾億万里に……無増無減と唐土の 聖人がたとへ〕
 『列子』湯問篇第五による詞句。

  渤海の東、幾億万里なるかを知らず、大壑有り。実に惟れ底無きの谷なり。その下、底無し。
  名づけて帰墟と曰う。八紘九野の水、天漢の流れ、之に注がざるは莫きも、
  増すこと無く減ること無し。  (引用は麦谷邦夫訳『老子・列子』による)

渤海
 1.七世紀末から十世紀初頭まで、中国東北地方の南東部から朝鮮半島北部沿海州を領域とした国。
 2.黄海に連なり、遼東・山東両半島に囲まれた内海。
 ここでは1。

際涯(そこひ)
 物事の至りきわまるところ。きわみ、果て。
 「そこひも知らず」で、深さの果ても分からない、限りも分からない。

帰墟  渤海の東にあるという底の知れない深い谷。

八紘九野
 「八紘」は「八荒」とも。国の八方の遠い果て。地上のありとあらゆる方面。転じて、全世界。
 「九野」は「九天」とも。天を九つに分けたその分野。「八紘九野」で、天上天下の全世界。

無増無減
 増えることも減ることもない、ということ。

唐土の 聖人がたとへ
 「聖人」は知徳が優れた人。本曲では具体的には前掲のように列子だが、
 文意としてはより広義に、古代中国のすぐれた人。

見る目はるけき
 「見る目」は1.見ること、会うこと。 2.見た様子。容姿。 3.様子をうかがう他人の目。
 4.物・事柄の真偽、優劣を見分ける力。 ここでは2。
 「はるけき(遥けし)」は、
 1.(空間的に)非常に遠い、ひどく離れている。 2.(時間的に)ずっと遠い、久しい。
 3.(心理的に)遠く隔たっている。心が遠く離れている。 
 ここでは古代から続く悠久の時間(1)を含みつつ、2の意。

渺々と  広く果てしのないさま。

水や空なる沖つ浪 
 「水や空」は、海と空の区別がつかないさまを言う慣用的表現。
 「水や空空や水とも見え分かず通ひて澄める秋の夜の月」(『新後拾遺和歌集』秋上、詠み人知らず)
 「水や空、空行くもまた雲の浪の……」(謡曲「八島」)など。
 海と空との区別をつかなくさせる沖の浪、の意。

煙る碧
 「煙る」は1.煙が立ち上ったりたなびいたりする。 
 2.霧やもや、水しぶきなどで煙が立ちこめたように周囲がかすむ。
 3.一面が、新芽の薄緑でかすんだようになる。 ここでは2。
 「碧」は様々な色味を表す語で、ここでは海や空などのような深い藍色。
 「煙る碧」はその色に見える霞、翠霞(すいか)。

蒼茫と 
 1.見渡す限り青々として広いこと。また、そのさま。
 2.ほの暗いこと。またそのさま。目の届くかぎり薄暗く広いさま。

片帆影  片帆の姿。帆を方向けた船の姿。

それかあらぬか
 それであるかそれでないか、たしかではないが。
 果たしてそれか、あるいはそうでないのか。

むらむらぱっと
 群れ居るものが一斉に飛び立つ様子を表し、特に多く鴎が飛び立つさま。
 長唄メモ「賎機帯」参照。

浪がしら  波のたった先。波頭。

八重潮の  非常に長い潮路。はるかな潮路。

遠方(をちかた)  あちらの方。遠方、遠いところ。

実にも  なるほど、その通りだ。まことに、いかにも。

不老の神人の 棲むてふ三つの島根
 渤海の東にあるという、伝説の島のこと。蓬莱・方壺・〓州(えいしゅう)の三島。
 『列子』湯問篇によれば、帰墟に不老不死の仙境である五つの島があった。
 五つの島はどこにもつながっておらず、波の間に漂っていたので、天帝が大きな亀十五匹に支えさせた。
 ところが、ある巨人が亀を釣り上げてしまったため、五つの島のうち二つが流され、三つが残ったという。
 日本では三島の中でも蓬莱山がことに有名で、日本最古のつくり物語である『竹取物語』でも、
 かぐや姫がくらもちの皇子に

  東の海に蓬莱といふ山あるなり。それに、銀を根とし、金を茎とし、白き玉を実として立てる木あり。
  それ一枝折りて賜はらむ


 と、蓬莱山に生えているという宝樹の枝を所望する場面がある。
 また浦島伝説には浦島太郎が赴く竜宮城を常世の島=蓬莱山と同一視するむきがあることも
 踏まえた表現か。

かも 
 終助詞。詠嘆・感動を表す。……であることよ。

西岸は 名にし負ふ 夕日が浦に
 楽劇『新曲浦島』序之幕第一段ト書に、
 「総て丹後の国、竹野郡、澄の江の浦。今の網野村近傍の海岸即ち夕日浦の辺より西方向つて日本海を
 見たる景色」。

秋寂びて
 「……さぶ」は上代の接尾語。名詞について「いかにも……らしい状態・態度になる」意の動詞をつくる。
 「秋さぶ」は秋らしくなる、秋めく。晩秋のわびしい感じが深まることに言う。
 
とどろ浪
 荒々しく、力強く音を鳴り響かせる大きな波。荒波。

岩に砕けて 裂けて散る
 大波が激しく打ち寄せるさま。
 源実朝の和歌「おほうみの磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも」(『金槐和歌集』雑部106)
 による表現と思われる。

悠々と 
 はるかに限りないさま。

旦に洗ふ高麗の岸 夕陽もそこに夜の殿 
 朝は朝鮮半島の岸を洗う波は、海を行きつ戻りつして、夕陽の頃にはまたその岸に宿る、の意。
 「夜」は「夜」と「寄る」を掛ける。

錦繍の帳
 「錦繍」は錦と刺繍による美しい織物。
 「錦繍の帳」は、夕焼けの空の美しいことを形容する表現。

中空  空の中ほど。

誰が釣舟の 玻璃の燈し火白々と
 「中空に」であるので、実際の釣舟の灯りではなく、空に上った夕月をさす。

雲の真袖
 「真袖」は片袖に対する語。左右揃った袖、両袖。

しづ心なき風雲や  「しづ心」は静かな落ち着いた心。

蜑の小舟
 「蜑」は「海人」「海士」とも。男女を問わず、漁業や製塩業に従事する人。漁師、漁人。
 「蜑の小舟」は、漁夫が漁のために乗る小さな舟。

とりどりに  いろいろに、さまざまに。

櫓拍子
 船の櫓をあやつる拍子。櫓を押して漕ぐリズム。

船歌絡(かが)る雁がねの 
 「絡(かがる)」は糸をからげるようにして編むこと、つくろうこと。
 切れ切れに聞こえる船歌の合間を縫うように雁の声が聞こえること。

浦の門に  「浦の戸」と同義。海岸の家々。

すさまじかりける風情なり
 「すさまじ」は1.その場にそぐわず面白くない。つまらない。興ざめだ。
 2.さむざむとしている、荒涼としている。 3.程度がはなはだしい、ひどい。
 4.(近世語)あきれたことだ、とんでもない。 ここでは2の意。



【成立について】

明治三十九年(1906)二月、東京芝・紅葉館で行われた文芸協会発会式で初演。
作曲五代目杵屋勘五郎、作詞坪内逍遙。
坪内逍遙が提唱する「新楽劇論」の具体案として発表された楽劇「新曲浦島」の序の幕・前曲。

楽劇「新曲浦島」発表当初はすぐに実演することを目的とせず、逍遙自身がひとつの「下画」と考えていた。
発表後、岡安喜三郎が序の幕だけ作曲するも、逍遙と東儀鉄笛の意に沿わず途絶。
明治三十九年の文芸協会発会式の折は、文芸協会からの依頼で、余興として前曲のみ、
十三代目杵屋六左衛門(五代目勘五郎の兄)が作曲した。
翌明治四十年(1907)十月、文芸協会第二回公演にあたって、前曲と序幕第四段のみ、
初めて坪内逍遙自身の指導に基づいて五代目杵屋勘五郎が作曲した。
十三代目六左衛門が作曲していた前曲についても、五代目勘五郎が改訂を施し、
これが好評を博して、前曲のみ独立した長唄として現在に至る。
(河竹繁俊・柳田泉『坪内逍遙』による)

明治三十七年(1904)の初版本の前曲は長唄のみでの演奏と指定されていて、
詞章は現行の長唄詞章と大きく異なる。
翌明治三十八年、逍遙は論考「「浦島」の寓意に就きて」の中で、
歌劇(オペラ)を意識して、前曲を長唄のみでなくあらゆる楽人による総顔見せの形式に変更することと、
あわせて改訂歌詞(現行の長唄詞章とほぼ同)を発表した。
ただし明治三十九年の初演の際は長唄のみで演奏された。



【参考文献】

朝田祥次郎ほか注『日本近代文学大系49 近代戯曲集』角川書店、1974.8
池田弘一『長唄びいき』青蛙房、2002.4
池田由紀「明治三〇年代のオペラ受容史再考―森鴎外『玉篋両浦嶼』、坪内逍遥『新曲浦島』を中心に」
 『超越文化科学紀要』東京大学大学院総合文化研究科超越文化科学専攻、2012.11
乾克己ほか編『日本伝奇伝説大事典』角川書店、1986.10
植田重雄「浦島ロマンの展開―逍遥の「新曲浦島」と鴎外の「二人浦島」―」
 『日本及日本人』通巻1623、日本及日本人社、1996.7
杵屋栄蔵『長唄のうたひ方』創元社、1927
志民一成ほか「附属学校と連携した日本伝統音楽の指導法および教材の開発―長唄《新曲浦島》の
 中学生への指導を例に―」『静岡大学教育実践総合センター紀要』19、
静岡大学教育学部付属教育実践総合センター2011.3
瀧井敬子「坪内逍遥作『新曲浦島』―東京藝術大学による全三幕初演の試み」『新日本学』9号、
 拓殖大学日本文化研究所、2008.6
田中喜一「『新史劇論』の史的位相―坪内逍遥における理論と実践―」『大阪音楽大学研究紀要』通巻6、1968.3
坪内逍遥『明治文学全集16 坪内逍遥集』筑摩書房、1969.2
坪内逍遥「『浦島』を作せし顛末」『歌舞伎』84号、歌舞伎発行所、1904.10
坪内逍遥「「浦島」の寓意に就きて」『歌舞伎』88号、歌舞伎発行所、1905.2
濱口久仁子『逍遥舞踊鑑賞の手引き』逍遥協会、2006.1
本多佐保美ほか「日本伝統音楽の声に着目した指導法と教材開発研究―長唄《新曲浦島》の指導を例に―」
 『日本教育大学協会研究年報』30、日本教育大学協会年報編集委員会、2012.3
麦谷邦夫訳『中国の古典2 老子・列子』学習研究社、1983.3
早稲田大学演劇博物館編『演劇百科大事典3』平凡社、1960.10
ほか


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