藤  娘
文政九年(1826)九月
作詞 勝井源八
作曲 四代目 杵屋六三郎
〈三下り〉 
津の国の 浪花の春は夢なれや 早や二十年の月花を 
眺めし筆の色どりも書き尽くされぬ数々に 山も錦の折を得て 故郷へ飾る袖袂 
[鼓唄]
若紫に十返りの 花をあらはす松の藤浪 
人目せき笠塗笠しゃんと 振りかたげたる一枝は 
紫深き水道の水に 染めてうれしきゆかりの色の 
いとしと書いて藤の花 エエ しょんがいな 
裾もほらほらしどけなく 鏡山人のしがよりこの身のしがを 
かへりみるめの汐なき海に娘姿の恥かしや 
男心の憎いのは ほかの女子に神かけて あはづと三井のかねごとも 
堅い誓ひの石山に 身は空蝉の から崎や まつ夜をよそに 比良の雪 
とけて逢瀬の あだ妬ましい ようもの瀬田にわしゃ乗せられて 
文も堅田のかた便り 心矢橋の かこちごと 

※この間1「潮来」が入る場合と2「藤音頭」が入る場合がある。
 「潮来」の文句等、詞章に異同が多い


〈三下り〉
松を植ゑよなら 有馬の里へ 植ゑさんせ 
いつまでも 変はらぬ契りかいどり褄で よれつもつれつまだ寝がたらぬ
宵寝枕のまだ寝が足らぬ 藤にまかれて寝とござる 
アア何としょうかどしょうかいな わしが小枕お手枕 
空も霞の夕照りに 名残惜しむ帰る雁がね 


〈本調子〉[潮来] 
潮来出島の 真菰の中に 菖蒲咲くとは しをらしや サアよんやさ サアよんやさ 
宇治〔富士〕の柴船 早瀬を渡る わたしゃ君ゆえ のぼり船 サアよんやさ サアよんやさ
花はいろいろ 五色に咲けど 主に見かへる 花はない サアよんやさ サアよんやさ 
花を一もと わすれて来たが あとで咲くやら 開くやら  サアよんやさ サアよんやさ
しなもよや〔なく〕 花に浮かれて ひと踊り

〈三下り〉[藤音頭] 
藤の花房 色よく長く 可愛いがろとて酒買うて 飲ませたら 
うちの男松に からんでしめて 
てもさても 十返りという名のにくや かへるといふは忌み言葉 
花ものいわぬ ためしでも 知らぬそぶりは 奈良の京 
杉にすがるも 好きずき 松にまとうも 好きずき 
好いて好かれて 離れぬ仲は 常磐木の 
たち帰らで きみとわれとか おお嬉し おおうれし

(歌詞は文化譜・『日本舞踊全集』・『長唄全集』を参考に、表記を一部改めた)


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江戸時代、近江国の大津付近では、東海道を往来する人のおみやげとして大津絵が盛んにつくられました。
藤娘は、もともとこの大津絵に描かれた画題のひとつです。
これが歌舞伎舞踊に取り入れられて、現代でも絶大な人気を誇る作品となりました。
舞台一面に垂れ下がる大きな藤の花房。
その間で、あざやかな総振袖に黒塗笠の美しい娘が、藤の一枝を肩に担いで舞い遊ぶ――。
舞踊「藤娘」の特徴は、「娘」という言葉には不釣り合いなほどの色気にあります。
たとえば同じ娘ものの「鷺娘」にも、
憂いをおびたはかなさや恋にはにかむ愛らしさなどの娘らしい魅力が表現されていますが、
「藤娘」の場合は、もっと異性の心に直接的に訴えかけるような色っぽさがあります。
詞章の上でも、後半に引用される有馬節は、有馬温泉の湯女・藤を愛欲的に求める意味を込めたもの。
入れごとには潮来節を用いる場合と藤音頭を用いる場合がありますが、
この潮来節も、元は潮来の遊廓で歌われ、江戸に伝えられて大流行した歌です。
この色気の理由は、「藤娘」初演の頃にあるようです。
古井戸氏の研究によれば、藤娘を題材とする舞踊は、もともと「おやま」の所作として成立したそうです。
現在では歌舞伎の女形役者のことをさして「おやま」と言いますが、
「おやま」とは本来、上方で遊女を指していう言葉。
つまり成立当初の「藤娘」は、純粋な娘というよりは、遊女が娘の振りをしている、というニュアンスで
踊られたもののようです。
そうであれば、歌詞に遊女や遊廓に関連する地方歌謡が引用されるのも納得がいきます。

思えば、藤の花というのも不思議な花です。
春の花でもあり、同時に夏の花でもあるため、別名は二季草(ふたきぐさ)。
色は高貴な紫や清純な白、小さい花は可憐でありながら、
松の大木にからみついて風にしどけなく揺れる姿は、見方によっては妖艶でもあります。
それはちょうど、あどけなさと色気が同居する、「娘」と同じ。
藤娘の持つアンバランスな魅力は、
案外、成立の背景とはまた別に、少女と女の過渡期にある「娘」の本質を表しているのかもしれません。



【こんなカンジで読んでみました】

摂津の国の浪花の春。あれは夢の中のことだったのだろうか。
江戸へ出てきて、早や二十年の月日が過ぎた。
その間に眺めたいくつかの月、何度かの花、描きつくせぬたくさんのこと。
そして今は実りの秋、錦繍に彩られた山々を越えて、私は故郷・大坂へ、錦を飾りに帰るのです。

薄紫に咲き初めて、まるで松の花をよそおう藤の波。
人目をさける黒塗笠に、肩にかついだ一枝は、ご縁も深いお江戸の水に、染まって色づく紫色の、
「い」と「し」で書いた藤の花。
裾がちらちら乱れているよ、滋賀の鏡山ならぬ、鏡に写して見てごらん。
人の欠点を探すより、自分の身をかえりみるほうが先さ。
鏡がないなら鏡山のそば、海松布のしげる海ならぬ、琵琶湖に写して見てごらん。
――あらやだ、恥かしいこと。

男なんて大嫌い。
だって、粟津に松風が吹く中で、他の女には会わないって言ったじゃない、
三井寺の鐘が響く暮れ時に、神様に誓うって約束したじゃない。
石山寺の観音様にかけた堅い誓いが嘘にやぶれて、私はからっぽ。
唐崎に夜の雨がしとしと降り続くなか、からっぽの心であなたを待つの。
比良山に積もった雪はいつ融けてしまったの? あの女とはどうやって打ち解けたのよ。
よくも口車に乗せてくれたわね。嬉しくて、瀬田の夕焼けみたいに顔赤くした、私がまるでバカじゃない。
堅田の雁に託した手紙、今日も返事はやっぱり来ない、
矢橋の港に舟が帰って来ても、私の口から出るのは恨みごとばかり。

松を植えるなら、有馬の里にお植えなさいな。
だって有馬なら、ふふ、松が長生きするみたいに、私とあなたの約束も、ずっと変わらないわよ。
褄をつまんでちょこちょこ歩けば、足に裾がからみついて、ふふ、からみついて、まだ足りないの?
宵から早寝したじゃない、それでもまだ足りないんだ。
藤にからみつかれて、寝ていたいのね。
ふーん、どうしよっかな。じゃあ今夜も、私の枕は、あなたの腕枕ってことね。そうしたいんでしょ?

藤の花咲く晩春の、霞みのかかった空は夕焼け。
名残を惜しんで飛び立つ雁がね、お江戸のみなさん、いつかまた。

[潮来]
潮来の水郷、中洲の中に、菖蒲が可憐に咲きました。私もここで咲きながら、あなたが来るのを待っています。
宇治の早瀬を柴船が、木の葉のように渡っていくの、私はあなたに巡りあい、流れに逆らう船になったの。
色とりどりに花は咲き、女もよりどり咲き誇る、でも、あんたに惚れる女なんて、私の他にいるもんですか。
花を一輪、連れては来ずに置いてきた。後で迎えに行けるだろうか、あそこできれいに咲くのだろうか。
悪くないね、さあ、花に浮かれてひと踊り。

[藤音頭]
藤の花房が色よく長く咲くように、大切に育てようと思って、お酒を買って飲ませたの、
藤の花にはお酒がいいって言うじゃない?
そしたらどうよ、あたしの大切な男松にからみついて離れないで、
本当にもう、あんた藤の花でしょ松の花じゃないでしょ、
松の花です十返りですって、は? バカじゃないの? かえるなんて言葉だいっきらいよ。
花がしゃべらないのは知ってますけどね、だからって人の男に絡みついて知らぬそぶりはないんじゃない?
杉だろうが松だろうが、そりゃ好みは人それぞれ、好きずきだろうけど、
好きかって、好きよ、好きあって常磐木のようにずっと離れぬ仲は、あなたと私ってこと?
え、どゆこと、帰らないでくれるの?……えへ、嬉し。



【大津絵】

大津絵は、江戸時代に近江国大津の追分や三井寺辺りで売り出した戯画。
寓意を込めたユーモラスな主題と走り書きのような軽いタッチが親しまれ、
東海道を往来する人の土産物として求められて全国に広まった。
谿季江氏「大津絵再考―近世絵画史における大津絵の位置づけ―」によれば、
黄表紙に、当時東(江戸)土産として人気を博した錦絵(浮世絵)に対比させるかたちで
大津絵が取り上げられており、その知名度の高さが伺えるという。
そのはじめは寛永年間(1624~1644)にさかのぼると言われる。
初期は、民衆の事物となる礼拝用の仏画であったが、元禄頃から世俗的な画題の戯画が増え、
百十種を超える画題が確認されている。
江戸中期になると、当時庶民の間で流行していた石門心学の影響から絵に教訓的な道歌が配されるようになり、
護符として用いられるようになった。
時代が下るにつて、多種多様であった画題は人気のあるものに限定されるようになり、十種に整理されて
「外法梯子剃」「鬼の念仏」「雷と太鼓」「瓢箪鯰」「鷹匠」「槍持奴」「釣鐘弁慶」「座頭」「矢の根五郎」「藤娘」
が「十種大津絵」として固定化された。
この画題は大津絵としてだけでなく、他の絵画にも趣向として取り入れられ、広く親しまれた。



【藤娘のモチーフ】

大津絵の画題のひとつである藤娘とは、何を描いたものなのか。
その姿にはどのような意味があり、どのような過程を経て成立したのだろうか。
古井戸秀夫氏は、論考「藤娘の成立」において藤娘の姿かたちに注目している。
すなわち、1黒塗り笠をかぶり、その下に多くはびらり帽子をかぶっていること、
2派手な総模様の大振袖を片肌脱ぎに着て、藤の枝をかついでいること である。
古井戸氏によれば、1は、女性が外出するときの身なりで物見遊山に出かける女性を示し、
2で片肌を脱いでいるのは、能の狂女物の形式「脱下げ」によるもので、女が物狂いの状況にあることを
示すと言う。ここで言う物狂いとは、能のように悲しみに狂うのではなく、手に持つ藤の花に象徴されるように、
花見の遊山に物狂いする姿であり、古井戸氏は、
つまり藤娘は、物見遊山や色恋に心を奪われた新時代の享楽的な女の風俗を描いたものであると指摘した。
経済発展に伴って力を蓄えた町人が担い手となった元禄文化では、現実を生きるが持つ欲が肯定され、
芝居・花見など、派手で享楽的な遊びが好まれた。
総模様の大振袖、塗り笠をかぶっての物見遊山は、元禄の前後約五十年、いわゆる「元禄時代」の
女性の遊興を象徴する様である。
この元禄文化の頃は、仏画が主であった大津絵で、世俗画が盛んに描かれ出した時期と一致する。
鈴木堅弘氏は論考「「趣向」化する大津絵――からくり人形から春画まで」において、
「大津絵も、「元禄文化」を支えた社会的な要因や経済的動向との絡み合いのなかで、しだいにその画風に変化をもたらしたと考えるべきであろう」と述べている。
藤娘の図も、このような社会状況を背景に誕生したものと言える。
一方、谿季江氏は、大津絵の藤娘成立以前に描かれた絵馬を論拠に、
「愛宕参り」の図が藤娘のルーツである可能性を指摘した。
愛宕参りの図では、当時の風習から愛宕参詣の人々が樒の枝をかたげた様子が描かれており、
藤娘の構図と共通する。
ただし、なぜ手に持つ植物が樒から藤の花に変化したのかについて、明確な答えは出ていない。
谿氏もいくつかの推論を挙げているが、それらが複合的に影響を与え合ったものと推察している。
あるいは、有馬節および湯女・藤像の流行と関連する可能性があるか(【潮来節と有馬節】参照)。
また、先に述べた能の狂女物との共通性については、
谿氏も、藤の枝と能で狂女が手に持つ「狂い笹」との相似を指摘し、
「藤娘の構図の変化と定型化に少なからず影響を与えた」と述べている。

なお、舞踊の藤娘については、古井戸氏が前掲論考の中で、
もとは立役によるおやまの所作として演じられたものであり、そのことが、初演時の歌詞には
「娘むすめと沢山さうに」というクドキがあったこと、
「藤娘」に通底する、通常の「娘物」とは異なる「娘らしさの強調」につながっていることを述べている。



【潮来節と有馬節】

〈潮来節〉
「いたこ」「潮来出島」とも。常陸国(現茨城県)の潮来で歌われていた歌謡。
潮来は利根川と北浦の間にあり、東北地方から江戸への水運の中継港、水郷の地として繁栄した。
潮来節は、元々は水路を往来する船で櫓をこぐ際に歌われた船唄だったものが、
潮来の遊廓で三味線音楽として歌われるようになったもの。
潮来の遊廓は鹿島・息栖・香取三社詣での旅客でにぎわい、ここで遊興した人々によって江戸に伝えられ、
その後遊廓を中心に全国的に大流行した。
七・七・七・五音の近世小唄調の詞章で、ほとんどが女性を主体とする恋歌。
曲節は歌い継がれる過程で変化したと考えられ、鹿倉秀典氏は、
本曲「藤娘」に挿入されるものは江戸で洗練された後のもので、潮来で歌われていた曲節とは異なると
推察している(後掲論文)。
潮来節は同様の七・七・七・五調の地方歌謡の詞章を吸収して曲のバラエティを増やし、
また芝居の黒御簾音楽などを通して各地に伝わり、地方歌謡に摂取された。
(参考:『日本古典文学大事典』、鹿倉秀典「音曲と戯作―潮来節と江戸戯作」ほか)

〈有馬節〉
近世流行歌の一つ。
「松になりたや有馬の松に、藤にまかれて寝とござる」を基調とする。
有馬温泉の藤という湯女を歌ったもので、色欲的な要素の強い歌。
藤という湯女は特定の個人ではなく、有馬温泉に代々受け継がれた湯女の源氏名という。
小野恭靖氏は上記のフレーズの原型について、天和三年(1683)の紀行文『千種日記』の記述によって
寛文・延宝年間(1661~1681)頃の成立と推定している。
有馬節の流布にしたがい、藤という湯女のイメージも人々の関心を集め、近松による歌舞伎化などを経て
「美女の代名詞」となっていったという。
有馬節は『落葉集』『山家鳥虫歌』などの歌謡集に収められて広まり、
上記のフレーズが長編歌謡の一部としても摂取された。
さらに、「花になりたや……」「雪になりたや……」などの替え歌も盛んにつくられた。
(参考:『日本古典文学大事典』、小野恭靖「有馬節と版本「ありまぶし」」ほか)

なお先述の『千種日記』には、
この歌が巷間に流布した際、都の女性のかたびらに藤の絵柄が流行したことが記されている。
有馬節が流行した元禄期は、それまで仏画中心だった大津絵に世俗画が発達した時期と一致する。
また古井戸氏の指摘する藤娘の「色狂い」「恋狂い」という性格と異性の歓心を誘う湯女という存在は、
イメージの上で通底するものがある(【藤娘のモチーフ】参照)。
有馬節の流行は、藤娘の原型と目される「愛宕参りの図」において、女性の衣服に藤の絵柄が描かれ始めたこと、
それまでは樒であった枝が藤の枝に代わったことにも影響を与えたのではないだろうか。
有馬節の流行は、愛宕参りの図が藤娘の図に変じた要因のひとつである可能性が考えられる。
なお本稿では詳細な検討を加えるに至らず、私見として申し添えるにとどめる。



【語句について】

〔津の国の……故郷へ飾る袖袂〕
 曲の結びとともに、初演の二代目関三十郎が大坂へ帰ることを表す部分。

津の国の 浪花の春は夢なれや
 「津の国」は摂津国の古い言い方。 
 「津の国の」は、摂津国の名所「難波(なにわ)」「昆野(こや)」「長良(ながら)」「御津(みつ)」
 などの類音によって、「なに(何)」「な(名)」「こ(来)」「ながらへ」「みつ(見つ)」などにかかる枕詞。
 ここでは単純に地名の「浪花」を導く。
 二十年近く昔に江戸に来たので、浪花(大坂)のことは春の夢のようにおぼろげだ、ということ。

早や二十年の月花を 眺めし
 「二十年の月(=月日)」と「月花」を掛けて言う表現。
 月花は、1.月と花。また、月・花に代表される風雅な物事。 2.非常に寵愛するもののたとえ。 
 ここでは1の意。

山も錦の折を得て 故郷へ飾る袖袂 
 本曲の初演が九月であったことから、山が紅葉する頃(錦の折)と、帰郷して錦を飾ることを掛けて言う。

若紫に十返りの 花をあらはす松の藤浪 
 「若紫」は1.むらさき(紫草)の異称、愛称。若々しい紫草。 2.淡い紫色。うすむらさき。
 3.『源氏物語』の巻名および光源氏の妻・紫上の幼少時代の呼び名。
 ここでは2で、具体的には藤の花(の色)を示す。
 「十返りの花」は松の花のこと(長唄メモ「老松」参照)。
 「あらはす」は、ここでは「描く」の意か。
 「藤波」は1.藤の花房。なびいて動くさまが、波の打ち寄せるような動きであることから言う。
 転じて、藤の木そのものも表す。
 2.「ふじ」の音にかけて、藤原氏、またその系統。
 「松の藤波」は松の木にまつわりついて咲く藤の花のこと。転じて、すがりつくこと、まつわることの例え。

人目せき笠塗笠しゃんと 振りかたげたる一枝は 
 藤娘のこしらえを言う詞章。
 人目を避けるための塗り笠(薄い板に紙を張って漆塗りにした笠)をかぶり、
 藤の花の一枝を肩にかついでいる様子。この扮装については【藤娘のモチーフ】参照。

紫深き水道の水
 「紫深き」は武蔵野に多く自生していた紫草のことが繁茂しているさまで、武蔵野・江戸を示す。
 紫を用いた染物、またその色は「江戸紫」と呼ばれ、近世以降は江戸を象徴する色となった。
 (長唄メモ「吾妻八景」参照)
 「水道の水」は上水道の水のことで、これも江戸を象徴的に表す語。
 江戸の下町は水質がよくなかったので、幕府は神田上水・玉川上水を整備し、各町に配水した。
 「金のしゃちほこを横目でにらみ、水道の水で産湯をつかった」という成句は、
 明暦の大火で焼失した江戸城の金のしゃちほこと合わせて、江戸っ子が自尊的に言うことば。

染めてうれしきゆかりの色
 「ゆかりの色」は紫色のこと。江戸紫の連想により、江戸を象徴的に表す。

いとしと書いて藤の花
 ひらがなの「い」を十個(「と」)と「し」のを用いて、藤の花を表す意匠(デザイン)。
 いとし藤とも。
 
裾もほらほらしどけなく
 「ほらほら」は裾などがひらひらまくれるさま。
 「しどけなし」は1.規律がなく雑然としている。いいかげんでしまりがない。とりとめがない。
 2.(服装や髪が、とりつくろわないために適当に乱れている様子を、むしろ美的なものとして好意的に言う)
 うちとけた親しみがある。ゆるび乱れた美しさがある。
 3.幼くしっかりしていない。なよなよとして頼りない。考えがゆきとどかない。ここでは2および3で、
 藤娘の成熟しないがゆえの色気を言う。

鏡山
 滋賀県南部、竜王町と野洲町にまたがる山。歌枕で、ふもとに東山道の宿駅・鏡宿があった。

人のしがよりこの身のしがを 
 「しが」は「疵瑕」。「しか」とも読み、また「瑕疵」とも。「疵」は体のきずの意、「瑕」は玉のきずの意。
 1.欠点。またあやまち、過失。 2.不運、不幸。また弱み、つらさ。 ここでは1。
 地名の「滋賀(古くは志賀)」とかけて大津絵を想起させるとともに、次の近江八景を詠み込んだ
 詞章につながる。

かへりみるめの汐なき海に
 「顧みる」と「海松布(みるめ)」の掛詞。海松布は海藻の一種。
 「汐なき海」は「しおならぬ海」とも。塩分を含まない海の意で、みずうみ、特に琵琶湖をさす。

娘姿の恥かしや 
 古井戸秀夫氏は、
 舞踊としての「藤娘」を演じたのが本来は立役の役者で、初めは「娘」ではなく「おやま」
 の所作事であったことを指摘しており、
 「気恥ずかしいくらいの可憐さを強調した表現が「藤娘」の魅力になっている」と述べている。
 (『新版 舞踊手帖』による)

〔男心の憎いのは……心矢橋の かこちごと〕 近江八景を詠み込んだ詞章。
近江八景
 三井晩鐘・唐崎夜雨・堅田落雁・粟津晴嵐・矢橋帰帆・比良暮雪・石山秋月・瀬田夕照 の八つ。
 近江国(現滋賀県)琵琶湖南部の景勝として、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)になぞらえて
 選定された八つの景色。
 従来は明応九年(1500)近衛政家の選定と伝えられてきたが、近年は慶長年間(17世紀初頭)に、
 近衛信惟尹によって選ばれたという説が有力。
 瀟湘八景は、中国湖南省の瀟水と湘水の合流地付近にある八つの景色。
 瀟湘八景になぞらえたいわゆる「八景」は日本各地に多くあるが、近江八景のように、
 地名と事象を組み合わせる形式まで瀟湘八景を踏襲する場合と、対象地のみ挙げ、
 事象については特に問わない場合がある。長唄では、「巽八景」が前者、「吾妻八景」が後者にあたり、
 「吾妻八景」では対象地の数も八つに限定していない。
 八景ものの詳細については、後日掲載の長唄メモ「巽八景」参照。

あはづと三井のかねごとも 
 「あはづ」は地名の「粟津」と「会はず(会わない)」の掛詞。
 「かねごと」は「三井の鐘」と「かねごと(予言・兼言)」の掛詞。
 「他の女性には会わないという約束も」の文脈に、「粟津晴嵐」「三井晩鐘」を含ませた章句。
 「粟津」は滋賀県大津市の地名。『平家物語』にも登場する粟津の松原で知られる地。
 歌川広重の「近江八景」中「粟津晴嵐」は、強風に枝葉を揺らす松並木の様子を描いており、
 本稿の現代語訳でもその意を含めて解釈した。
 「三井」は三井寺。正式名は園城寺で、現滋賀県大津市にある天台寺門宗の総本山。
 鐘の音が古来から近江八景のひとつに数えられ、また現代での日本三名鐘の一つに選ばれている。
 「かねごと」は、前もって言っておいた言葉。かねてからの約束。

堅い誓ひの石山に 
 「堅い」の縁で「石山」を導き、「石山秋月」を含ませた章句。
 「石山」は石山寺、現滋賀県大津市にある真言宗の寺。本堂が巨大な岩の上に立ち、寺名の由来になる。
 古来から観音霊場として信仰を集め、『枕草子』『蜻蛉日記』『更級日記』などの文学作品に登場する。
 「石山秋月」は、険しい岩の上に建つ石山寺を照らす秋の月。

身は空蝉の から崎や 
 「空蝉(うつせみ)」の縁で「から(空)」、同音で「唐崎」を導き、「唐崎夜雨」を含ませた章句。
 「空蝉」は蝉の抜け殻。転じてセミ、また魂が抜けた虚脱状態の身のこと。
 「唐崎」は近江国の歌枕で、現滋賀県大津市唐崎神社のあたり(長唄メモ「操り三番叟」参照)。

比良の雪 
 「比良」は比良岳、琵琶湖西方に位置する比良連峰のうちのひとつ。
 琵琶湖と対照的な眺めから、「比良暮雪」として近江八景のひとつに数えられる。

とけて逢瀬の 
 「とけて」は前の「雪」が融けるの意と、男が別の女と打ち解ける意を掛ける。

あだ妬ましい
「あだ」は副詞「あた」。多く不快な気持ちや嫌悪の情をこめて、続く語の程度がはなはだしい様子を表す。
 ひどく、むやみに、いやに。

ようもの瀬田にわしゃ乗せられて 
 「よう(よく)も乗せた」に「瀬田」を掛ける。
 「よくも」は、1.(しにくいことを敢えてしたり、あることがかえって幸いだったりした時)
 なかなかそういうことはできないものなのに。なかなかそううまくはゆかないものなのに。よくぞまあ。
 2.(1.の逆説的な用法。他人のよくない行いを憎み、非難する時)よくもまあ。
 「瀬田」は滋賀県大津市の地名。また瀬田川のこと。
 瀬田川にかかる「瀬田の唐橋(長橋)」は交通の要所で、日本三古橋のひとつ。
 歌川広重が描く「瀬田夕照」は、瀬田の唐橋を描いたもの。

文も堅田のかた便り
 「堅田」の音から「かた(片)便り」を導く。
 「堅田」は滋賀県大津市の地名。湖上交通と漁業で栄えた町。
 浮御堂(別名満月寺)があり、「堅田落雁」は近江八景のひとつ。
 「片便り」は、手紙を託す機会が片方にだけあって、戻りの機会がないこと。先方から返事がこないこと。
 雁からの連想で手紙を導くか。

心矢橋(こころやばせ)の かこちごと 
 「心矢橋」は「心やまし(疾し)」と「矢橋」を掛けていう表現。
 「心やまし」は1.不快である、いらいらする。 2.ねたましい。
 「矢橋」は現滋賀県草津市の地名。
 対岸の石場(大津市)との間の渡し舟発着地として栄え、「矢橋帰帆」として近江八景のひとつ。
 「かこちごと(託ち言)」は恨み嘆く言葉。恨みごと。

松を植ゑよなら 有馬の里へ 植ゑさんせ 
 以下の詞章は有馬節の影響を受けたもの。【潮来節と有馬節】参照。
 有馬節は湯女である藤を恋う男性主体の歌だが、本曲全体の文意を踏まえ、
 本稿の現代語訳では女性主体を基調にして意訳した。

いつまでも 変はらぬ契り
 常磐木である松を意識した章句か。

かいどり褄
 「掻取小褄」とも。衣服の褄をつまみ上げて、歩きやすいようにしていること。

よれつもつれつ
 「つ」は並立の助動詞。「……たり」。
 「よる」「もつる」ともに、ねじれたりまつわりついたりしてからまること。

宵寝枕
 宵のうちから寝ること。早寝。

藤にまかれて寝とござる 
 有馬節「松になりたや有馬の松に、藤にまかれて寝とござる」からの引用。

何としょうかどしょうかいな  どうしようかな。

わしが小枕お手枕 
 「小枕」は木枕の上に載せて頭を受けるための、そばがら、籾などを入れた細長い円筒形の袋。
 「手枕」はちょっと横になる時などにひじを曲げて枕にすること。ひじまくら、たまくら。
 ここでは「お」がついているので、相手の男性の腕枕として解釈した。

夕照り  夕日に照り映えること。夕焼け。

名残惜しむ帰る雁がね 
 初演の二代目関三十郎が大坂へ帰ることを言う詞章。


[潮来] 【潮来節と有馬節】参照。
潮来出島の 真菰の中に 菖蒲咲くとは しをらしや 
 「いたこ出島の、まこもの中に、あやめ咲くとは、つゆしらず」(『潮来図誌』所収「潮来節」ほか)
 とも。潮来節の元歌のひとつと考えられる(小野恭靖『近世流行歌謡 本文と各句索引』解説による)。
 「しほらし」は1.優美だ。奥ゆかしい。上品だ。 2.可憐である。かわいらしい。
 3.けなげだ。殊勝だ。

宇治(富士)の柴船 早瀬を渡る わたしゃ君ゆえ のぼり船
 「富士」と歌うこともあるが、鹿倉秀典氏はこれについて
 「舞踊の手が山形に両手を交差し「富士」を表す所作となっていることから転化したものなのだろう」
 と推察している。文意上は「宇治」が適切。
 「宇治」は宇治川のことで、古来網代・霧・柴船などの景物とあわせて和歌に詠まれることが多い。
 「柴船」は柴木を積んだ小舟。たきぎにする雑木の小枝を載せた舟。
 「のぼり船」は「上がり船」とも。1.上流へさかのぼる船。 2.京・大坂など上方へ向かう船。

花はいろいろ 五色に咲けど 主に見かへる 花はない 
 「五色」は「いろいろの種類、多様に」の意。
 「見かへる(返る)」は1.後ろを振り向いて見る。 2.かえりみる。心にかける。世話をする。
 で、ここでは「なびく、心ひかれる」等の意。

花を一もと わすれて来たが あとで咲くやら 開くやら
 「一もと」は、草木などの一本。

しなもよや(なく) 花に浮かれて ひと踊り
 「しな(品)」は、ここでは味わい、趣の意か。


[藤音頭] 
 昭和十二年(1937)三月歌舞伎座で、六代目尾上菊五郎が踊った際に、岡鬼太郎が作詞して作ったもの。
 舞踊の上では
「酒を飲んでほんのりと酔った娘の初々しい姿」(DVD「歌舞伎傑作撰 藤娘・保名・鷺娘」解説)
 「扇を盃にして酒をのみ、酔った娘を表出しました」(『日本舞踊全集』「藤娘」解説)
 などと解釈しているが、詞章の上での全体の歌意が読みにくい。
 本稿では、主体となる女性が、相手の男を松の木に見立ててからみつく藤の花に嫉妬する、
 という雰囲気で読んだ。

可愛いがろとて酒買うて 飲ませたら 
 藤の花に対して、酒を飲ませたら、の意。

うちの男松に からんでしめて 
 「男松」はクロマツの別称だが、ここでは男性の比喩。

てもさても
 「ても」と「さても」は同義で、重ねて意味を強める言い方。いかにも。本当に。

十返りという名
 松、また松の花のこと。長唄メモ「老松」ほか参照。

かへるといふは忌み言葉 
 「忌み言葉」は、特定の職業・場面で使用を避ける言葉。
 不吉な意味の語を連想させる言葉が多い。例えば婚礼の際の「去る」「切る」「帰る」、
 お悔みの際の「重ねる」など。

花ものいわぬ ためしでも
 「ためし」はここでは通例の意。「花は物を言わないのが普通であっても」の意。

知らぬそぶりは 奈良の京 
 「奈良の京」が、成句と思われるが用例・詳細不明。「ならぬ」との掛詞と思われる。

杉にすがるも 好きずき 松にまとうも 好きずき 
 「すがる」はもつれる。また、つかまって身を支える、しがみつく。
 「まとう」は巻きつくようにする、巻きつかせる、からみつかせる。
 どちらも藤の花の様子について言い、また同時に女性についての意も含む。

好いて好かれて 離れぬ仲は 常磐木の 
 「離れぬ仲」から、恒常の意のつながりで「常磐木」を導く。
 「常磐儀」は一年中緑の葉を保つ樹木、常緑樹。特に松について言う。

たち帰らで きみとわれとか おお嬉し おおうれし
 「たち帰らで」は「帰らないで」。前の章句「かへるといふは忌み言葉」を受けての言葉。
 藤音頭一連の詞章からは、「娘」らしさよりもむしろ遊女のような色気が感じられる。



【成立について】

文政九年(1826)九月、江戸中村座にて初演。
二代目関三十郎が上方へ帰るお名残狂言『けいせい反魂香』大切の五変化舞踊
「歌へすがへす余波大津絵(かえすがえすおなごりおおつえ)」のひとつ。
作曲四代目杵屋六三郎、作詞勝井源八。大津絵に描かれた藤娘を舞踊化した曲。
入れごとの「潮来」は、安政元年(1854)中村仲蔵が「連方便茲大津絵(つれをたよりここにおおつえ)」
で踊った時のもの。
はじめ潮来で唄われ、のち江戸で流行した潮来節によって大津絵に通じる鄙びた味わいを演出するが、
詞章の上では前後と通じる物ではなく、踊の振りを見せるのが主眼となる。
「藤音頭」は、六代目尾上菊五郎が昭和十二年(1937)に歌舞伎座で踊った時のもので、岡鬼太郎作詞。
大津絵という設定を離れ、藤の花の精である娘が、酒にほろ酔いになるという趣向。

二代目関三十郎は天明六年(1786)大阪生まれ、大阪の役者。家紋は丸に三蓋松。
文化五年(1808)三月、江戸中村座に下って技能を認められ、
七代目市川団十郎らとともに江戸歌舞伎四天王とうたわれた。名人関三とも。
本曲と同じ「歌へすがへす余波大津絵」の五変化のひとつ「奴」の別名「関三奴」にその名を残す。



【参考文献】

小野恭靖『近世流行歌謡 本文と各句索引』笠間書院、2003.2
小野恭靖「有馬節と版本「ありまぶし」」『大阪教育大学紀要』46巻、大阪教育大学、1998.1
稀音家義丸『長唄囈語』邦楽の友社、2015.3
郡司正勝ほか監修『名作歌舞伎全集19 舞踊劇集』東京創元新社、1970.5
鹿倉秀典「音曲と戯作―潮来節と江戸戯作」『国文学 解釈と教材の研究』通巻669、学燈社、2001.6
鈴木堅弘「絵解き文化からみる大津絵について―その成り立ちをめぐって―」
『説話・伝承学』説話伝承学会、2008.3
鈴木堅弘「「趣向」化する大津絵―からくり人形から春画まで」『京都精華大学紀要』42、2013.3
谿 季江「大津絵と民俗宗教の関わりについて―「藤娘」を例として―」
 『論集』34(第50回印度学宗教学会学術大会記念号)、印度学宗教学会、2007.12
谿 季江「大津絵再考―近世絵画史における大津絵の位置づけ―」『鹿島美術研究』年報28別冊、2011.11
古井戸秀夫「藤娘の成立」『近世文芸』51号→『歌舞伎 問いかけの文学』ぺりかん社、1998所収
古井戸秀夫『新版 舞踊手帖』白水社、
丸茂美惠子『日本舞踊における娘形技法の実証的研究』(学位請求論文)



【参考】

春いつか暮れて行方も白浪の 立つ風もなき鳰(にお)の浦 昔ながらに咲く花の 時に近江の待つの藤浪
人目せき笠塗笠しゃんと……(以下同)……
アア何としょうか どしょうかいな 花ある松の声々に 深き縁の春のささやき