いきほひ
天明七年(1787)正月

作曲 初代 杵屋正次郎

[前弾]〈三下り〉 
勢ひ和朝に名も高き 曽我の五郎時致が 逆沢潟の鎧蝶 
裳裾にすがる鶴の丸 素袍の袖を かき撫でて 留めるは鬼か 小林の 朝比奈ならぬ優姿 
女のよれる黒髪に 引かれて止まる心なら やらじと引けば時致は 
日頃の本望父の仇 妨げなすなと突き飛ばし 廓のじゃれとは違ふぞよ 放せ 留めた 
留めてよいのは 朝の雪 雨の降るのに去なうとは そりゃ野暮ぢゃぞへ待たしゃんせ 
起請誓紙は嘘かいな 嘘にもじゃれにも誠にも 余所に色増す花眺め
そして騙して それそれそれその顔で 怖いこと云うて腹立てしゃんす 
そちら向いてゐさんしても 顔見にゃならぬ 末を頼みの通ふ神 
かよわき少将朝比奈が 力は素袍の袖添へて 
互ひに劣らぬ有様は 貴賤上下おしなべて 感ぜぬものこそなかりけれ

(歌詞は文化譜により、表記を一部改めた)


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「正札附」と同じ、草摺引物の作品です。
本曲の特徴は、力比べの相手として、五郎の恋人である遊女・化粧坂の少将が登場すること。
本来の草摺引物は、ひげ面の大男・小林の朝比奈が力まかせに五郎を引きとめるのですが、
本曲では、朝比奈の衣装を着た化粧坂の少将を朝比奈に見立てて、
すねたり甘えたりの廓らしい口説で五郎を引きとめさせています。
「正札附」にも、朝比奈が女性のそぶりをする場面がありますが、
これは屈強な朝比奈がなまめいた女性のしぐさをする滑稽味を狙ったもの。
対して本曲は、本物の女性を朝比奈に見立てて引きとめ役とすることで、
荒事の中に柔らかさと華やかさを添えています。
曽我物・草摺引物について、また語句については、長唄メモ「正札附」のページも合わせてご覧ください。



【こんなカンジで読んでみました】

昇る朝日の勢いで日本中に名を馳せる、曽我五郎時致の、
逆沢潟の鎧を手にした蝶の小袖の立ち姿。
その草摺にすがって止める、鶴の丸の袖は誰?
鬼のような大男、小林の朝比奈!……かと思いきや、世にもきれいな優姿。
女の情けにほだされて、とまってくれるものならば、行かせないわと引っ張ると、
仇討ちにはやる時致は、長年求めた父の仇、邪魔立てするなと突き飛ばし、
廓のおふざけじゃないんだから、お前ちょっと放せって。
いや。いーや、行かないでっ。
だって、雪の降る朝は引き留めるのがお決まりじゃない。
それなのに、雨が降ってるのに帰ろうとするなんて、‘雨の五郎’じゃあるまいし、
あんまり野暮ってものよ。ね、いや、待って。
……あそう。ふーん。行くんだ。ふーん。私のこと好きじゃないのね、そうなのね。
誓いの言葉も嘘だったのね。嘘じゃないの? じゃ冗談? 冗談じゃないの? じゃ本気?
ふーん。へー。
どうせ別のところに私よりきれいなひとがいるんでしょ、私よりそっちの方が好きになっちゃったんでしょ、
どうせ私のこと、うまく騙せてると思ってるんでしょ。
ほら、ほらほらほら、怒った、すぐそうやって怒るよね。
当たってるから怒るんだよね? ね?
ちょっと、こっち向いてよ、こっち見て。
あなたがそっぽ向いたって、誰かに気を取られていたって、私はあなたを見てたいの。
あなたは私の、行く末をかけた人だもの。
かよわい女の少将だって、行かせるわけにはいかないの。
朝比奈並みに譲らぬ力は、鶴の丸の袖が力を添えているから。
五郎と少将、互いに譲らぬ有様は、これぞ似合いの粋同士、誰もが思わず見惚れたものだ。



【語句について】
勢ひ
 1.元気、活力。 2.人を支配する力。権力、権勢。
 3.物事のなりゆき、様子、形勢。
 ここでは、他を圧する力の表れ、勢力。

和朝
 日本の朝廷、日本の国。

鎧蝶
 五郎が手にしている鎧と、五郎が着ている衣装の蝶の模様を言ったもの。

裳裾にすがる鶴の丸 素袍の袖
 化粧坂の少将が、鶴の丸の紋が入った素袍を着ていることをさす。
 鶴の丸の紋は、本来小林の朝比奈が着用する衣装の紋で、
 小林の朝比奈を当たり役とした初代中村伝九郎が、自分の紋を衣装につけたのが始まりとされる。
 ここでは化粧坂の少将を朝比奈に見立てているため、同様の衣装を着ている。
 なお本曲は、化粧坂の少将の役を、舞鶴にという別の役に変えて演じられることがあるが、
 舞鶴も同様に鶴の丸の素袍を着用する。(『日本舞踊全集』による)

優姿
 しとやかで美しい姿。優美な姿。
 前の「あさ(ひな)」と「やさ(すがた)」で頭韻を踏む。

女のよれる黒髪に 引かれて止まる心なら
 「女の髪の毛には大象もつながる(女の魅力はどんな男の心をも惹きつける強い力がある)」
 ということわざに基づく表現。
 『徒然草』第九段に 「女は髪のめでたからんこそ、人の目たつべかめれ。
 (中略)されば、女の髪すぢをよれる綱には、大象もよくつながれ、
 女のはける足駄にて作れる笛には、秋の鹿、必ずよるとぞ言ひ伝へ侍る。(後略)」とある。
 大象の足を女の髪でつないだところ動けなくなった話は『五苦章句経』にあるというが未見。

じゃれ
 じゃれること。ふざけ、戯れること。冗談、ざれごと。

留めてよいのは朝の雪
 廓で、雪の降った朝には居続けの客が多かったことを言う。
 類句未見。

雨の降るのに去なうとは
 雨が降っているのに帰ろうとするのは。
 『日本舞踊全集』には「実は濡れただけで帰ろうというのが、ふくまれている。そこで、
 次の「野暮じゃぞえ」がきいてくる」とあるが、詳細不明。
 陰暦五月二十八日が曾我兄弟の命日であることから、その日に降る雨を「曽我の雨」と呼ぶほか、
 五郎が雨に濡れながら大磯の廓へ通う様を唄った長唄「五郎時致(雨の五郎)」など、
 曽我五郎は雨のイメージと関連づけて描かれることが多い。

起請誓紙
 「起請」は本来、事を企てて主君に願い出ること、またそのための文書。
 後に、神仏に誓いを立て、自分の行為や言説に偽りのない旨を記すこと、
 また夫婦の誓いなど、神仏に誓って相互に取り交わす約束の文書などもさすようになった。
 「誓詞」は誓いの詞を記した紙、誓文。特に男女の愛情が変わらないことを誓う起請文。
 遊廓では客と遊女の間で起請文を交わした。
 類歌「ぬしの心に、誠がなけりや、紙を証拠に、かけまくの、起請誓紙も、みんなあだ」(『朝来考』)。

余所に色増す花眺め
 ここではない他の所に、自分よりも1.美しい 2.思いを寄せる 女ができたのだろう、
 という悋気心を表す文句。

末を頼みの通ふ神
 「通ふ神」は、道中の安全を願って道ばたに祀られた道祖神のこと。
 遊女は手紙の封じ目に「通ふ神」と書いて、その安着を祈ったという。



【成立について】

天明七年(1787)正月、桐座初演。
作曲初代杵屋正次郎、作詞増山金八(『邦楽曲名事典』)。『日本舞踊全集』では作詞笠縫専助。
本名題「菊寿の草摺」。



【筆者覚え書】
〈女朝比奈〉は、宝暦九年(1759)五月市村座の「菖蒲杜若、根元草摺引」にて、
女朝比奈(本名あこや)を中村富十郎が演じたのを最初とする。
中村富十郎は既に「京鹿子娘道成寺」「英執着獅子」で女形としての名声を確立しており、
上記演目は富十郎のために、女朝比奈をシテとしてつくられたと考えられている。
この影響から、草摺引物は引きとめる役の方が主となるようになった。
明和九年(1772)正月中村座の「梅笑粧くさずり」も女(月さよ)が五郎を引きとめる役回りだが、
先の富十郎の女朝比奈と比較すると、粗略に扱われている感がある。
これは所作事は女形のもの、という通念が崩れ、立役が所作事に進出してきたことを背景とする。
(以上『日本舞踊全集』による)



【参考文献】
『朝来考』(文化四年(1807)成稿、真〓葛、小野恭靖編『近世流行歌謡 本文と各句索引』笠間書院)
『新編日本古典文学全集四四 方丈記・徒然草・正法眼蔵随聞記・歎異抄』小学館

その他、長唄メモ「正札附」に準ずる。