花 見 踊
明治十一年(1878)六月
作詞 竹柴瓢助
作曲 三代目 杵屋正治郎

〈二上り〉
吾妻路を 都の春に志賀山の 花見小袖の 縫箔も 華美(はで)をかまはぬ伊達染や
斧琴菊(よきこときく)の判じ物 思ひ思ひの出立栄
連れて着つれて行く袖も たんだ振れ振れ六尺袖の しかも鹿の子の岡崎女郎衆
裾に八つ橋染めても見たが ヤンレほんぼにさうかいな
そさま紫色も濃い ヤンレそんれはさうぢゃいな
手先揃へてざざんざの 音は浜松よんやさ
花と月とは どれが都の眺めやら
かつぎ眼深に北嵯峨御室 二條通の百足屋が 辛気こらした真紅の紐を
袖へ通して つなげや桜 ひんだ鹿の子の小袖幕
目にも綾ある 小袖の主の 顔を見たなら なほよかろ ヤンレそんれはへ
花見するとて 熊谷笠よ 飲むも熊谷 武蔵野でござれ
月に兎は和田酒盛の 黒い盃闇でも嬉し 腰に瓢箪 毛巾着
酔うて踊るが よいよいよいよいよいやさ
武蔵名物月のよい晩は をかだ鉢巻蝙蝠羽織 無反角鍔角内連れて
ととは手細に伏編笠で 踊れ踊れや 布搗く杵も 
小町踊の 伊達道具 よいよいよいよいよいやさ 面白や
入り来る入り来る桜時 永当東叡人の山 いやが上野の花盛り
皆清水の新舞台 賑はしかりける次第なり

(歌詞は文化譜に従い、表記を一部改めた)
 
〔別歌詞〕
たんだ振れ振れ六尺袖の しかも鹿の子の振袖模様


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本曲は、明治十一年に新築落成した新富座開場式で発表されました。
新富座は、天保の改革で江戸の中心から遠ざけられた芝居小屋が再び都心に進出した最初の劇場です。
それまで街灯に用いられていたガス灯を、室内灯として日本で初めて劇場内に設置したことで有名です。
芝居小屋から脱却し、近代にふさわしい劇場となるため、新富座は設備面のみならず、
その運営にあたってもさまざまな改革に挑みました。
まさに、時代の最先端というべき劇場の開場。
その記念すべき式典に、二百年以上昔の花見を描いた曲が作られたのは、なぜでしょうか。

戦乱がなくなり、幕府の力が安定し、貨幣が経済の中心となった1600年代の終わり。
大坂を中心に、元禄文化は一気に花開きました。
派手で大胆なデザインの着物が世を風靡し、センセーショナルな恋物語が芝居や浄瑠璃で人々を魅了します。
この文化の中心となったのは、古代のように貴族ではなく、中世のように武士でもありません。
経済の変化を敏感に感じ取り、新しい商売の方法を考え、チャンスを逃さずものにした町人たちでした。
当時の武士の給料は、原則としてお米です。お米は相場によって価値が変化してしまいます。
経済が発展して貨幣の流通量が増えれば増えるほど、米相場によって給料の価値が左右される武士にかわって、
町人、とりわけ商人が力をつけ、時代の主役となったのです。
本曲は、そんな元禄時代の花見の様子を再現した曲です。
当時の花見は、一家をあげての一大行事。
女性たちはここぞとばかりに装いたて、この日のために新調した晴れ着を何枚も持って出かけます。
何度も着替えをし、木の間にわたした紐にかけて小袖幕にして、隣の宴と贅を競いました。
贅沢好み、派手好みと言っても、元禄の人々が傲慢だったり悪趣味だったりしたわけではありません。
身分の高くない者が裸一貫から財をなそうと志したら、一体何に頼ればよいでしょうか。
神仏や主君、そんなものは、何一つ助けになりません。
過去や来世、そんなものは、考えるだけ時間の無駄です。
己の才覚で生きる町人が信じたのは、きっと己自身なのだと思います。
自分が望む未来は、自分の力で引き寄せる。
だからこそ、桜が咲いたなら、新しい着物を買ったなら、好きな人がいるのなら、
外聞や立場に縛られず、自分の気持ちを大切に、今この瞬間を全力で楽しんだらいいじゃないか。
元禄という時代が、現実を自分の力で生きる町人たちのエネルギーに満ちあふれた時代であり、
豪華絢爛な花見がその象徴であったからこそ、
明治時代、歌舞伎の近代化という大きな目標を掲げた新富座開場式に、本曲はつくられたのではないでしょうか。

駆け出すような前弾きは、新しい時代を迎えた胸の高鳴り。
曲全体にあふれる高揚感が、元禄と明治、二つの時代に生きた人々の強さと美しさを、今に伝えます。



【こんなカンジで読んでみました】

吾妻路、なんて古い言葉で呼ばれたこの町の春を、きらびやかな都の春にするものはなんだろう。
滋賀の山桜? 志賀山流の踊衣装? いやいや、ちがう。世に名高い、元禄模様の花見小袖さ。
金銀刺繍に伊達染に、どんなに派手でも構わない。
江戸っ子好みの「かまわぬ」に、「よきこときく」の謎染め抜いて、老若男女が思い思いに着飾った。
うん、誰もかれもみんな、いい感じだ。

一緒に行こ? うん、いいよ。
二人でふわふわ、袖振りながら歩いてこ。長いでしょ、豪華よね、ね、きれいでしょ。
今年は八つ橋柄を染めてみたの。 えーほんとに?そうなの?
あなたの紫も、濃くていいわあ。 ふふーん、そりゃそうよ。
あの唄覚えた?踊れる?「ざざんざの、音は浜松―」って、上方で流行ってるんですって。
でもあたし、浜松風の音なんて聞いたことなーい。
ね、あなたとあたしじゃどっちがきれいかしら、花と月とはどちらの眺めがよいかしら、
東と西では、どちらの都の勝ちかしら?

奥ゆかし、衣を目深に被ったご令嬢、花見に行くのは北嵯峨か、それとも御室の桜木か。
二条通の百足屋が、じれったいほど手を凝らして編んだ真紅の紐を袖へ通して、
桜につなげば目にも鮮やか、疋田鹿の子の小袖幕。
綾織の小袖もきれいだけれど、小袖よりきれいなはずのお嬢さんの顔が見られたら、もっと幸せ。

花見しようぜ。あずま武士の花見は飲むぞ、えっお前なに被ってんの、熊谷笠? でかい盃じゃないの?
おい、ちびちびやってんじゃないよ、熊谷に武蔵野に、大盃でいこうぜ。
月に兎はいい取り合わせだが、和田酒盛なんて銘がついた立派な盃じゃなくたって、
別にただの黒い盃でもいいんだけどな、酒が飲めれば。
腰に瓢箪、毛皮の巾着ぶらさげて、酔って、よいやさっ、踊ればいいじゃん、だって楽しいじゃん。

武蔵名物、月がきれいに出た晩は、みんなでおどけて踊ればいいじゃん。
ご内儀さんは伊達男に化けなさる、飾り鉢巻蝙蝠羽織、むぞりの角鍔腰に差し、後ろに奴を引き連れた。
旦那さんはなよなよ頬かむり、編み笠で顔を隠してオホホって、ノリがいいね。
みんなで踊ろ、普段は布つく杵だって、今日は小町娘の踊りの道具、よいやさっ、あー、愉快だね。

本当に愉快だ。人波押し寄せる桜の季節の東叡山、上野の山はますますの花盛り。
みんなおいでよ清水堂の舞台へ、それから新富座の新しい舞台へ。
さあこれからが楽しみだ、賑やかなことになってきたよ。




【元禄 時代と文化】

元禄年間(1688~1704)を中心とする五代将軍徳川綱吉の在職時代(1680~1709)を元禄時代と言う。
この間、江戸幕府は大名・旗本の改易断行を続け、幕府の政治権力を絶対化した。
また庶民に至るまで忠孝道徳の教化を徹底し、政治体制や為政方針についても確立した。
元禄時代は農業改革の成功による生産力の増加、商品経済の発展によって、
庶民が飛躍的に力をつけた時代でもあった。
特に元禄金銀への改鋳を契機に貨幣流通量が増加し、貨幣が経済の基盤となったことにより、
町人、特に商人が台頭したことが、元禄文化の開花につながった。
元禄文化は、商業の中心地であった大坂を中心に発展した。
劇場や出版などのメディアの発達も、大衆の文化享受を後押しした。
俳諧師であった井原西鶴は、『好色一代男』『好色五人女』『日本永代蔵』などの浮世草子を創始し、
元禄時代に生きた町人の財欲や色欲などのエネルギー溢れる姿を描き出した。
人形浄瑠璃・竹本座の座付作者であった近松門左衛門は、義理と人情の間で葛藤する人間の諸相を活写し、
世話物浄瑠璃を確立した。
繁栄、泰平の雰囲気は、庶民の衣装にも影響を与えた。
例えば女性の小袖にも豪華絢爛な衣装が求められたり、六尺袖と呼ばれる長い振袖が流行したりした。
1600年代後半にはたびたび奢侈(ぜいたく)禁止令が出されていたことからも、
いかに庶民の服装が華美になっていたかがうかがい知れる。
1683年の禁令では、女性衣装に金紗、縫、総鹿の子を用いることを禁じている。
このことがかえって多彩な模様染の発達を促し、
大胆な意匠や友禅染に代表される多彩色の繊細な模様表現が流行した。



【元禄時代の花見】

桜は古来日本人に愛されてきた花で、古代・中世にも、武家や貴族の間には花を見に出かける行事があった。
江戸時代に入ると、この習慣が庶民にまで浸透し、群生する桜の下で飲食・歌舞音曲を伴う宴形式の、
いわゆる「花見」という行事が一般化する。
小野佐和子氏によれば、花見は都市の行事であり、
・家から外へ、また都市から郊外へ、という空間的な、
・男女、階級、身分の上下を問わない、という社会的な、日常からの解放の意味を持つという。
近世の花見は、家の主から使用人までが揃って出かける一大行事であった。
「花の宵」は花見の前夜を表す語で、花の宵には豪華な弁当や晴れ着の用意、翌日の晴れを祈るまじないなど、
家中が賑やかに過ごしたという。
特に女性は、花見にあわせて晴れ着を新調することが多かった。
身分の高い者だけでなく、それぞれが分に応じた晴れ着を用意し、念入りに化粧をしてめいめいに着飾った。
元禄期には、伊達染、大振袖、重ね着など、派手で豪華な衣装が流行した。
富裕層の間では、花見に行く時に着用する衣装の他に何枚もの着替えを用意して楽しんだという。
花見の際、武家や富裕町人は、花見幕と呼ばれる定紋や屋号を染めた大きな幕で自分たちの場所を区切った。
花見幕にはところどころに切れ目があって、中の様子がうかがえるようになっていた。
また、木の間にわたした紐に女性の小袖を何枚もかけ、幕の代わりにすることもあった。
花見は武士と町人、主と従者、男と女など、普段の生活では同じ位相に属することのない身分・立場の人々が
集合する場でもある。
通常は厳然としてある区別が花見幕一枚のように薄くなる、非日常的な空間でもあった。
そのため、身分違いの恋の舞台や、敵同士の邂逅の舞台として、花見が設定される文学作品もある。

上方の京・大坂と比較すると、江戸は幕府開設以降に新しく作られた後進都市である。
現在の東京には、江戸時代から続く桜の名所が多くあるが、実はそれらのほとんどは、
八代将軍吉宗の時代に都市開発にあわせて植樹されたもので、元禄期から続く花の名所はそれほど多くない。
その中で上野山は江戸初期から、山全体が白く見えるほどの群桜が有名で、東国一の桜の名所と呼ばれた。
花見の季節には大勢の群集が詰めかけ、上野山へ至る道が歩けないほどであったことが諸本に伝えられている。
ただし、将軍家菩提寺の東叡山寛永寺境内であるため、
・鳴物(楽器演奏)
・生ものを食べること
・夜間の花見
が禁止されるという制限があった(禁令は時代が下るにつれて有名無実になっていったともいう)。
明治六年(1873)に上野公園に制定されたことで、誰でも自由に出入りできるようになり、制約がとかれて
より賑やかな花見が可能になった。



【新富座 開場】

新富座は、明治五年(1872)から大正十二年(1923)まで東京市京橋区新富町にあった歌舞伎劇場。
江戸三座と称された守田座(旧森田座)の後身で、明治年間は日本一の大劇場であった。
江戸後期の天保の改革で、江戸三座は浅草・猿若町に強制移転させられていたが、
守田座座主の十二代目守田勘弥は歌舞伎と歌舞伎劇場の社会的地位向上を念頭に、劇場の都心回帰を計画した。
明治五年、守田座として新富町に移転・新築開場し、同八年に演劇会社設立、また新富座と改称。
しかし、明治九年の火災で類焼する。
その後も仮小屋で興行を続け、明治十一年、焼け跡に本座を新築・再開場した。
開場式は六月七日・八日の二日間にわたって執り行われ、政府高官や外国大使を招待、
俳優は燕尾服、座方関係者はフロックコートを着用して出迎えた。
『歌舞伎年表』によると、開場式は午後三時、陸海軍軍楽隊の演奏によって開始。
守田勘弥(菊五郎代読)、市川団十郎らの挨拶のあと、能舞台となって三番叟が上演され、
続いて本曲「元禄風花見踊」上演。
その後場内のガス灯が一斉に灯され、幕が落ちて再び能舞台となり、
団十郎・菊五郎・左団次の三名による石橋となった。
新富座は、屋根破損の修繕費用を考えてそれまでの芝居小屋で公許の印として立てていた櫓を廃止し、
官公庁以外には街灯にしか用いられていなかったガス灯を室内灯として270数カ所に設置するなど、
近代的劇場のさきがけとなる建物であった。
また、従来強固であった芝居茶屋との結びつきを縮小、
茶屋に変わる観客の社交の場として「運動場」(前庭)を設置し、劇場内部に飲食所や売店を設けるなど、
劇場の在り方自体の改革にも取り組んだ。
同年八月にはガス灯を用いた初の夜芝居を開催。
翌明治十二年には初の西洋翻案劇の上演、あわせて外国人観客向けに英文の筋書きを作成するなど、
歌舞伎の近代化を牽引した。
同年、ドイツ皇孫ハインリヒ、アメリカ前大統領グラントが来日時に観劇したことにより、
外国からの賓客は新富座で観劇することが慣例的になり、
新富座は上流階級の社交場として認識されるようになった。



【語句について】
吾妻路
 東路とも。京都から東海道、また東山道を経て関東・奥羽路へ通う道筋。
 転じて、関東・東国地方のことだが、本曲ではさらに狭く、東京を意味するものと思われる。

都の春に志賀山の 
 前と合わせて直訳すると「吾妻路の春を都の春にしてしまう志賀山の花見小袖」となる。
 吾妻路は古代・中古の文学では未開の土地のイメージを持つが、
 明治遷都によりその吾妻路が東京という都になったことが文意の下敷きとなる。
 「志賀山」は元禄の頃、江戸で歌舞伎舞踊の振付をした志賀山万作、
 また万作から始まる日本舞踊の流派、志賀山流のこと。
 江戸から東京という都になった地に、志賀山流が創始された元禄の頃の花見小袖が華やかな春を連れてくる、
の意か。
 『日本舞踊全集』の解説では、志賀山を「滋賀の古名」とし、
 「忠度の歌の山桜から花見にかけたものであろう」としている。
 忠度の歌とは「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」(平忠度、『千載和歌集』66)
 だが、旧都を懐かしむ歌意が本曲の文意とはやや離れるか。

花見小袖
 花見の時に着る小袖。
 江戸時代初期には、この小袖を特に華美につくるようになり、酒宴の時には木にわたした紐に小袖を掛けて
 仮の花見幕とした。(【元禄 時代と文化】【元禄時代の花見】参照)

縫箔
 衣服などの模様の縫い取りに、金糸または銀糸をまじえること。
 あるいは、刺繍をし、金銀の箔を押すこと。

華美(はで)をかまはぬ
 文意は「派手であってもさしつかえない、きにしない」。
 「かまはぬ」には明暦から元禄の頃まで町奴の間で流行した衣服の模様「鎌〇ぬ」をかける。
 鎌の絵に丸い輪と「ぬ」を配して「かまわぬ」と読ませるしゃれで、
 後に歌舞伎の市川家が取り上げ、特に文化年間、七代目団十郎が舞台で用いたことから流行したという。

伊達染
 派手な色や模様、また流行の模様などに染めること。また、そのように染めた衣服。

斧琴菊(よきこときく)の判じ物
 「よきこときく」は謎染めの一種で、斧・琴・菊の模様を染め出し、「良き事を聞く」の意を表すもの。
 「よきことをきく」とも。
 「判じ物」は謎のひとつで、文字や絵などにある意味を持たせてそれを解かせるもの。

思ひ思ひの出立栄
 「出立栄」は、いでたちの立派なこと。装いたてていっそう美しさの増すこと。
 花見に出かける人がめいめいに着飾っていること。

連れて着つれて行く袖も
 「連る」は1.並び続く、つらなる。 2.いっしょに行く、連れ立つ。
 また動詞の下につき、その行為を共にあわせてすることを意味する。
 「同じように着飾って(あるいは揃いの小袖を着て)、連れ立って出かけて行くその袖も」の意。

たんだ振れ振れ
 「たんだ」は「唯(ただ)」を強めて言う語。元禄前後に流行した小唄を引用したもの。
 『松の葉』巻三・三「門ばしら」に、
 「たんだ振れ振れ、六尺袖をさ、のほんへ、てうせんじ門柱をふりかくす、しやうがへ」。

六尺袖
 万治頃から延宝・天和頃まで流行した振袖。両袖に用いる布地の総丈が鯨尺で六尺、
 すなわち片袖の長さが一尺五寸(57㎝)のもので、これを当時大振袖と称した。
 「延宝・天和の頃までは、一尺五寸を大振袖と云。たんだふれふれ六尺袖をとうたひしは、
 其頃のこととぞ。一尺五寸四つ合せて六尺袖なり」(山東京伝『近世奇跡考』1804)
 また、別説に、陸尺(ろくしゃく)と呼ばれた人夫の来た袖とも言うが、
 前項の『松の葉』所収の歌および本曲詞章については、女性の振袖と見る方が適切。

しかも鹿の子の岡崎女郎衆(しかも鹿の子の振袖模様)
 「吉田通れば、二階からまねく、しかも鹿の子の 振袖が、しよんがへ」
 という江戸時代初期の流行歌謡の引用。
 『山家鳥虫歌』『春遊興』『延享五年小哥しやうが集』等の小唄集に類歌が収録される。
 岡崎・吉田(現豊橋市)はどちらも旧三河国で、東海道の宿駅。
 「岡崎女郎衆」は1.岡崎宿にいた遊女。
 2.近世初期の流行歌。「岡崎女郎衆はよい女郎衆」をくりかえすもので、三味線の手ほどきに使われた。

裾に八つ橋染めても見たが
 未詳。裾に八ツ橋図(かきつばたと橋)を描いた元禄模様の小袖を言うか。

ヤンレほんぼにさうかいな(ヤンレそんれはさうぢゃいな)
 どちらも囃し言葉。
 「ほんぼに」は「本本(ほんぼん・ほんぼ)に」で、本当に。
 本稿では「そうかいな」「そうじゃいな」の掛け合いとして、意味を付加して読んだ。

そさま紫色も濃い
 未詳。「そさま」は其様、あなたさま。

手先揃へてざざんざの 音は浜松よんやさ
 「手先揃へて」は踊りの手先が揃うことか。
 「ざざんざの 音は浜松」は近世初期に流行した歌謡の一節。
 「ざざんざ 浜松の音はざざんざ」の形で狂言小唄に残る。「浜松」は浜松風のこと。
 「このごろ上方よりざざんざと申す小歌が時花(はやり)きたり……」(『好色一代男』)。
 また酒宴の席で歌われることが多かったらしい。
 なお動詞「ざざんざめく」は酒を飲んで歌い騒ぐの意。「よんやさ」は囃し言葉。

花と月とは どれが都の眺めやら
 流行歌謡からの引用かと思われるが、典拠・類歌未詳。
 「花」は桜で春の眺め、「月」は秋の眺めをさす。
 本曲後半「武蔵名物月のよい晩は」以降は月の情景を描く章句で、内容としては盆踊りをさす。

かつぎ眼深に
 「かつぎ」は「被・被衣(かずき)」。きぬかずきのこと。
 公家や武家の婦女子が外出の際、顔を隠すために頭から背に垂らしてかぶり、両手で支えた単衣の衣。
 室町時代の中期から小袖被衣ができ、近世に及んだ。
 上流階級の女性が被衣を目深にかぶって出かける、京の花見の様子を表している。

北嵯峨御室 
 「北嵯峨」は現京都市の北西。大堰川を隔てて嵐山に接し、清凉寺・天竜寺・大覚寺などのある名勝地。
 古くから嵐山を中心に桜花・紅葉の名所。
 「御室」は京都市右京区にある仁和寺の別称。桜の名所として知られる。

二條通の百足屋が
 文意の上からは、二条通にある紐を売る店のことだが、詳細未詳。
 大久間喜一郎氏は、元和年間成立の仮名草子『竹斎』にある
 「帯は天下に隠れも無き、二条通の百足屋が、上人様の御帯とて、取分け心を尽しつつ、深紅の帯の……」
 が典拠となった可能性を指摘している(稿者本文未見)。
 また『日本舞踊全集』では、
 「百足のごとく、多くの手で、次の辛気をこらして編んだ紐とかける」と解説している。

辛気こらした真紅の紐を
 「辛気心苦」(じれったいこと、じれったくて思い悩むこと)をかけた表現。

袖へ通して つなげや桜 ひんだ鹿の子の小袖幕
 前の赤い紐を、ひんだ鹿の子(疋田鹿の子)の小袖の袖に通し、桜の枝につないで小袖幕にすること。
 【元禄時代の花見】参照。
 疋田鹿の子は疋田絞りとも。普通の鹿の子よりやや大型の四角形のもの。

目にも綾ある 小袖の主
 「綾」は1.綾織の模様。2.(模様や色彩の美しさから)彩り、美しさ、見事さ。3.物事の筋目、理屈。
 ここでは綾織の小袖と掛けて、その小袖の主である女性はもっと美しいだろうことをいう。

花見するとて 熊谷笠よ 
 「熊谷笠」は武蔵国熊谷で産した深い編み笠。江戸中期以前には廓通いにも用いた。
 後につづく「熊谷」「武蔵野」をみちびく語であるが、「花見するとて」とのつながりが不明瞭。
 顔を隠して花見に赴くことか。ここからふたたび江戸の花見を描いた詞章。

飲むも熊谷 武蔵野でござれ
 「熊谷」「武蔵野」ともに盃の称。「熊谷」は湯呑茶碗形式の深い盃。
 「武蔵野」は大盃。見渡しきれないほど広大な武蔵野とかけて「野、見尽くされぬ(飲み尽くされぬ)」
 のしゃれ。

月に兎は和田酒盛の
 「和田酒盛」は幸若舞の曲名で、『曽我物語』に基づく話だが、大久間喜一郎氏によれば、
 ここでは盃の名。黒漆地に金箔を押したものといい、次の「黒い盃」のことか。
 「「月」は盃を月に見立てたものらしく、兎の絵があったのかも知れぬ」というが、詳細不明。

黒い盃闇でも嬉し
 前の「和田酒盛」という盃のことか。

腰に瓢箪 毛巾着
 「瓢箪」はウリ科の多年草、ユウガオの一変種。果実は果肉を取りさって酒などを入れる器にする。
 「毛巾着」は毛皮でつくった袋、巾着。『松の葉』巻二・四十一「花見」に
 「ひょっくりひょ、親父が腰に瓢箪ひっつけて、ひょひょひょっと浮かれた」の一節がある。
 行楽風俗のひとつか。

武蔵名物月のよい晩は
 流行歌謡からの引用かと思われるが、典拠・類歌未詳。
 古代・中世の武蔵野は広大な原野のイメージで詩歌に詠まれ、
 遮るものがないことや秋草との取り合わせなどから特に月の眺めが賞賛された。
 近世以降は用水が整備され新田開発が進んだため、古代のような景観とは異なっていったが、
 詩歌や絵画では従来のイメージのまま描かれることが多かった。

をかだ鉢巻 蝙蝠羽織 
 大久間喜一郎氏の論考に翻刻される正本では「をかだ」は「おかた」。
 「御方」で、1.人を敬っていう語。 2.貴人の妻妾や子女の部屋、転じて妻妾や子女その人。
 3.中流以下で他人の妻を呼ぶ語。  ここでは2.で、武家か富裕町人の妻のことで、奥様の意。
 「鉢巻」は、頭の鉢を布などで巻くこと。
 大久間氏は「女性が髪の乱れを防ぐのに用いた」もの、
 『日本舞踊全集』では「伊達鉢巻で、討伐の飾り」「助六の鉢巻のごときもの」としている。
 次の「蝙蝠羽織」と合わせて考えると、ここでは奥様が若い伊達男の男装を楽しんでいる様子であるので、
 助六のような伊達鉢巻と考えるのが妥当か。
 「蝙蝠羽織」は丈の短い羽織で、座っても裾が折り返らないくらいの長さのもの。
 宝暦から明和の頃にかけて、武家・町人の間で流行した。

無反(むぞり)
 答申に反りがなく、まっすぐなこと。また、その刀。

角鍔(かくつば)
 刀の鍔の一種で、角形のもの。「無反」「角鍔」ともに、前の奥様の男装の様子とも、
 後の角内(奴)の身なりとも読める。

角内(かくない)
 武家の下僕の通称。奴のこと。文脈上の流れからは、奴の仮装をした者とも読める。

ととは手細に伏編笠で
 「とと」は「父」だが、ここではこの宴の男あるじのこと。前の「をかだ」と対になる。
 「手細」は1.腰帯。 2.頬かむりに用いる手拭状の絹布。
 3.綿帽子。真綿を薄く引き伸ばし、ふのりで固めた被り物。江戸時代には女性が用いた。
 ここでは2ないし3と思われ、男主人も何らかの仮装をしているものと思われる。
 「伏編笠」は、
 1.編み笠の一種。江戸時代初期、人目をはばかる者が用いた。網目が細かく、目にあたるところに
 小さな隙があるものを言う。
 2.人に顔を見せないように、編み笠を前さがりに被ること。 ここでは2の方が妥当か。

布搗く杵も 小町踊の 伊達道具
 「小町踊」は盆踊りの一種で、少女による七夕踊り。少女がたすきがけで鉢巻をして、
 太鼓を鳴らして町々を歌いあるくもの。七月七日と十四日に行われた。
 文意不明瞭だが、ここでは花見の余興として七夕の小町踊の様子を再現しているものか。

入り来る入り来る桜時 
 人が押し寄せる花見の季節。上野山の花見の様子については【元禄時代の花見】参照。

永当
 群集した人々の声。また、見物人の多いさま。
 「永当」は当て字で、見世物や芝居の口上の際に「長く、幾久しく」の意味でも用いられる。
 次の「東叡」を音で導く。

東叡 人の山
 上野にあった東叡山延暦寺のこと。
 「東叡山」と「人の山」を掛け、上野山の花見に人が群集するさまを表している。

いやが上野の花盛り
 「いやが上に」(なおその上に、あるが上にますます)に「上野」を掛けた表現。

皆清水の新舞台
 「清水」は寛永寺境内にあった清水観音堂のこと。
 「清水の舞台」という言い回しに、本曲が初演された新富座の新築開場を示す「新舞台」を掛ける。

賑はしかりける 次第なり
 形容詞「賑はし(賑ははし)」は、1.富み栄える、豊かである。 2.にぎやかである、華やかである。
 3.物が多い、豊富である。
 ここでは2で、花見のさまを述べるのと同時に、新富座の繁栄を祈る句。



【成立について】

明治十一年(1878)六月、新富座の新装開場式、大切所作事として初演。
本名題「元禄風花見踊」。
六月十日からの興行では、
本曲を上巻、「新石橋」を下巻とする「牡丹蝶扇彩(ぼたんちょうおうぎのいろどり)」として上演された。
作曲三代目杵屋正治郎、作詞竹柴瓢助。
正治郎はこの頃「正次郎」から改名したか。



【参考文献】

稲垣史生「時代考証事典 風俗編51 元禄花見踊り」『歴史読本 』昭和50年3月号、新人物往来社、1975.1
伊原敏郎『歌舞伎年表七』岩波書店、1962.3
植田隆之助「作曲者三世杵屋正治郎のこと」『季刊邦楽』38、邦楽社、1984.3
大久間喜一郎「歌詞研究」『季刊邦楽』38、邦楽社、1984.3
小塩さとみ「反復からみた長唄曲の音楽構造―『元禄風花見踊』の分析を通して―」
 『お茶の水女子大学人文科学紀要』48、1995.3
小野佐和子「江戸時代に花見における「境界性」について」
『都市計画(別冊)』学術研究論文集22、日本都市計画学会、1987.10
小野佐和子『江戸の花見』築地書館、1992.4
小出悠美子「新富座にみる歌舞伎の劇場改革」『日本女子大学大学院人間社会研究科紀要』10、2004.3
小谷青楓『長唄新註』法木書店、1913.4
白幡洋三郎『花見と桜〈日本的なるもの〉再考』八坂書房、2015.3
暉峻康隆・東明雅校注・訳『日本古典文学全集38 井原西鶴集一』小学館、1971.3
斗鬼正一「花見から見た都市、江戸・東京」『江戸川大学紀要 情報と社会』13、2003.2
西山松之助「曲の背景」『季刊邦楽』38、邦楽社、1984.3
野田千太郎「糸屑(元禄花見踊語釈)」『日本音楽』15、1949.2
ほか