島の千歳
明治三十八年(1905)四月
作詞 大槻如電
作曲 五代目 杵屋勘五郎
〈三下り〉 
丹頂緑毛の色姿 朝日うつろふ和田津海 
蓬が島の千歳が うたふ昔の 今様も 
変はらぬ御代の御宝 鼓腹の声々うち寄する 
四方の敷波立つか 返るか 返るか立つか 
[謡ガカリ] 返す袂や立烏帽子 

〈本調子〉 
水のすぐれておぼゆるは 西天竺の白鷺池(はくろうち) 
しんしょう許由に澄み渡る 昆明池(こんめいち)の水の色 
行末久しくすむとかや 賢人の釣を垂れしは 
厳陵瀬(げんりょうらい)の河の水 

〈二上り〉 
月影流れもるるなる〔もるなる〕 山田の筧の水とかや 
芦の下葉をとづるは 三島入江の氷水 
春立つ空の若水は 汲むとも汲むとも尽きもせじ尽きもせじ

            (歌詞は文化譜により、表記を一部改めた)


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平安時代の終わりごろ、白拍子と呼ばれる新しい芸能が生まれました。
水干に烏帽子、白鞘巻の男装をした女性が、ことほぎの歌や当時流行した今様という歌を歌い舞って、
神や人をなぐさめるものです。
島の千歳は、『平家物語』にその元祖と伝えられる女性の名前です。
後鳥羽院の亀菊、清盛の祇王・祇女、義経の静。
白拍子には遊女としての側面もあり、権力者たちはこぞって好みの白拍子を寵愛しました。
男舞の凛々しさと女性の持つたおやかさの不思議なバランス。
そして、権力の趨勢とともに、歴史の流れに翻弄されたはかなさ。
白拍子は、江戸時代の遊女の華やかなイメージとはまた違う、神秘的な存在として人々を魅了しました。
囃子方・望月太左衛門の襲名披露曲の題材に島の千歳が選ばれたのは、
白拍子の舞の伴奏に鼓を用いた縁によります。
一見すると大変難解な歌詞ですが、実は「水のすぐれておぼゆるは……」以降の歌詞は、
「水の宴曲(水の白拍子)」という中世歌謡の歌詞を引用したものです。
作詞の大槻如電は、祖父は『解体新書』を著した蘭学者・大槻玄沢、父は儒学者の大槻盤渓という
学問一家の出で、自身も古今東西の学問に通じた才人でした。
中古・中世の歌謡にも精通していた如電だからこそ、
当時白拍子が実際に歌い舞った曲を長唄の一節に利用することを思いついたのでしょう。
予備知識がなくては、どんなに丁寧に一語一語を読んでも本曲の描く世界をなかなかつかめません。
逆に、白拍子が鼓とゆかりが深いこと、中世歌謡を利用していることさえ頭に入れておけば、
細かい語句の意味が分からなくとも曲の世界に親しめるのではないでしょうか。
本曲は、言葉を尽くして説明するよりもずっと効果的に、中世の幽玄的な舞姫の姿を再現しています。
如電に限らず、明治の文人と呼ばれた人々の博識さと表現力には驚かされるばかりです。



【こんなカンジで読んでみました】

朝日照らす大海原のはるか、蓬莱山にあそぶ丹頂の鶴と緑毛の亀がたおやかな姿を見せた。
その鶴亀のように美しい島の千歳が、遠い昔にうたったという今様のはやり歌。
いつの世も君の御宝である民が、腹鼓を叩いて笑いあう泰平の今日、
鼓の音もまた時を超えて響く。
波は穏やかに立っては返し、返しては立ち、立烏帽子の女は舞い、そして袖がひるがえる。

「水の中でもすぐれて趣深く思われるものは、
西天竺の白鷺池(はくろうち)、お釈迦様がいらしたところ。
悟りの道のように澄み渡るのは昆明池の水の色、唐土長安のお城のとなりで、
永遠に濁ることはないと言います。
俗な世間にとらわれない賢い人が釣りをしたのは、厳陵瀬の河の水。
秋の夜、月の姿が流れていったというのは、山田の筧の水と聞きました。
芦の下葉をそっと眠らせたのは、三島江の冷たい氷水。
そして季節はめぐって、立春の今日の若水は、
清らかな命を宿すもの、汲んでも汲んでも尽きることはないでしょう」



【今様と白拍子】

〈中世の流行歌 今様〉

今様とは、本来「今の世、当世」また「(今の世の)はやり、当世風」の意である。
その時代に流行した歌のことも言う語であったが、
特に平安時代中期以降に起こった新しい様式の流行歌謡を指して、
催馬楽や神楽歌などの古い歌謡に対するものとして「今様(今様歌)」と呼ぶ。
今様の歌い手となったのは、歌い女(うたいめ)と呼ばれる専業的芸能者や白拍子などの遊女であった。
貴族も今様を愛好し、特に後白河法皇とその周辺の貴族は、今様を鑑賞するだけでなく、自らも芸の体得に努めたことが伝わっている。
歌の演奏には扇拍子のほか、鼓が伴奏楽器として多く用いられ、鼓は当時の遊女必携の品であった。
院政期に流行の最盛を迎え、その後は白拍子舞や僧徒の延年舞、宮廷歌謡に取り込まれて残ったが、
愛唱歌としてはすたれ、近世期にはほぼ廃絶した。
歌の内容は、無常観や極楽思想、仏への賛美を唄った仏教思想に基づく歌が過半を占めるが、
他に神の霊験を唄った神歌、漢詩和訳や和歌の本歌取り、庶民の生活に根付いた風俗歌など多岐にわたる。
今様は寺院での法会、貴族の宴席で歌われたほか、庶民が日常のうちに愛唱するものでもあった。
後白河法皇編纂の今様集成である『梁塵秘抄』は、『徒然草』等の中世随筆によりその書名は知られながらも、
本編は散逸したと考えられていた。
明治に入って本編の一部が発見され、次のような歌が知られるようになった。

 ・春の初めの歌枕 霞たなびく吉野山 うぐひす佐保姫翁草 花を見すてて帰る雁(13)
 ・仏はさまざまにいませども まことは一仏なりとかや 薬師も弥陀も釈迦弥勒も 
  さながら大日とこそ聞け(19)
 ・われを頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎まれよ 霜雪霰降る水田の鳥になれ 
  さて足冷たかれ 池の浮き草となりねかし と揺りかう揺り揺られ歩け(339)
 ・遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声きけば 
  わが身さへこそゆるがるれ(359)


歌の形式の面では、従来「七五調・四句」の定型と考えられていたが、
『梁塵秘抄』には八五調(四四五音)、五句・六句、短歌形式の歌も多く収録されており、
現在では一律に定型を論じえないとする向きが一般的となった。
この意味でも、『梁塵秘抄』の発見は中古・中世歌謡研究において画期的であったといえる。
今様はその他中世の歌謡集成のほか、説話・軍記物語・歌書などに散見し、
近世期にいたって伴信友『中古雑唱集』などこれらを網羅した書物が編まれた。


〈白拍子〉

1.雅楽の拍子の名。笏拍子だけで歌うもの。
2.平安時代末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞。またそれを歌い舞う遊女のこと。
本稿で取り上げるのは2で、普通「白拍子」と言うときには、その担い手となった遊女を指すことが多く、
江戸時代には遊女を俗に言う語にもなった。
白拍子は、多く今様を歌いながら舞う芸能を事とする女性芸能者であり、
芸能をもって神に仕えるとともに、権力者の寵愛を受ける遊女としての側面も持っていた。
『平家物語』巻第一「祇王」には、白拍子の起こりが以下のように記されている。

  そもそも我が朝に、白拍子のはじまりける事は、むかし鳥羽院の御宇に、島の千歳、和歌の前とて、
  これら二人が舞ひいだしたりけるなり。はじめは水干に、立烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ、
  男舞とぞ申しける。しかるを中比より、烏帽子、刀をのけられて、水干ばかりを用いたり。
  さてこそ白拍子とは名付けけれ。(『平家物語』巻第一「祇王」)


『平家物語』では、白拍子と言う名の由来を「装束に余計なものを省いたため」と説明しているが、
他にも声明における拍子の名称によるという説、伴奏を伴わない拍子のみの意とする説などがある。
芸能の実態についても不明な点が多いが、白拍子が舞うことを「かぞふ」と表現し、
その舞が「足を踏み倒す」と形容されていることから、拍子舞であろうと考えられている。
院政期頃から流行し、後鳥羽上皇・平清盛らの権力者に愛好されて鎌倉時代初頭に流行の最盛をみた。



【大槻如電 おおつきじょでん(にょでん)】

弘化二年(1845)~昭和六年(1931)。江戸生まれの蘭学・漢学・国学者、考証家。
名・大槻清修、通称・修二、号は如電・如電坊。
祖父は蘭学者で、杉田玄白とともに『重訂解体新書』を著した大槻玄沢。
父は儒学者で仙台藩の侍講をつとめた大槻盤渓。
弟は文部省の命を受け、近代日本の代表的辞書『言海』を編纂した国語学者の大槻文彦。
如電本人も文部省の『新撰字書』編纂に携わったが、明治八年、弟に家督を譲ってからは和漢洋の学問に没頭。
洋学紹介の書『日本洋学年表』、雅楽研究書『舞楽図説』、『日本地誌要略』など、他分野に功績を遺した。
弟・文彦が『大言海』修訂の途中で亡くなると、如電がその後を引き継いだ(『大言海』完成は如電の死後)。
多才で、自ら雅楽・邦楽の実技にも親しみ、また戯作も書いた。



【語句について】

丹頂緑毛の色姿 
 「丹頂」は頭頂部に赤い毛が生えている丹頂鶴、「緑毛」は甲羅に毛が生えている亀のことで、
 ともに長寿の象徴(長唄メモ「鶴亀」参照)。
 また縁起物として、蓬莱山との取り合わせで頻繁に表出する。
 「色姿」はなまめかしい姿。特に遊里の女性の姿、風俗について言う。
 ここでは鶴亀の優美なさまと、島の千歳の美しい姿を重ねて言うか。

うつろふ
 ここでは「移ろふ」ではなく「映ろふ」が適切。 光や影などが映る、照り映えている。
 朝日が差して輝く海原のさま。

和田津海 
 海。古代神話では海を「わた」と称し、「つ」は「の」の意の助動詞、「み」は「霊」で神の意。
 「わだつみ」は本来「海の神」を指す語だったが、時代が下って海そのものを指すようになった。

蓬が島の千歳
 「蓬が島」と「島の千歳」を掛けた表現。
 「蓬が島」は蓬莱山のこと。長唄メモ「操り三番叟」「新曲浦島」ほか参照。

うたふ昔の 今様
 「島の千歳が歌った昔の今様」の意。上記【今様と白拍子】参照。

鼓腹の声々
 「鼓腹」は「鼓腹撃壌」とも。腹鼓を打つことで、世の中がよく治まり、食が足りて民が安楽な様子をいう。
 満腹で腹つづみをうち、足で地面をたたいて拍子をとる意。『十八史略』による。
 囃子方・望月太左右衛門の襲名を意図した詞句と思われる。
 杵屋五叟氏は「鼓腹(こふく)」に「子福」を掛けると推察している(参考文献参照)。

うち寄する 
 前の「鼓腹」を打つ意と、後の「敷浪」が「うち寄する」の意を掛けた表現。

四方の敷波
 四方から、次から次へとしきりにうちよせる波。

返す袂 舞う時にひるがえる袂。

立烏帽子 
 ふつうの烏帽子。折烏帽子などと区別していう語。「返す袂」とともに白拍子が舞う様を示す。

〔水のすぐれておぼゆるは……尽きもせじ〕
 天保六年(1835)に伴信戸が編纂した中世歌謡集の『中世雑唱集』に、次の歌が載る。

  水猿曲 或は水白拍子と号す

  水のすぐれて、覚ゆるは、西天竺の、白鷺池、しむしやう許曲に、すみ渡る、昆明池の、水の色、
  行末久しく、澄むとかや、賢人の釣を、垂しは、厳陵瀬の河の水、月影ながら漏るなるは、
  山田の筧の、水とかや、芦の下葉を、とづるは、みしま入江のこほりみづ、春立空の、若水は、
  くむともくむとも、つきもせじ、つきもせじ
  (引用は淺野建二『日本古典全書 新訂中世歌謡集』により、表記を一部改めた)


 淺野氏の解説によれば「正しくは水の宴曲で、水を詠み込んだ物盡しの長篇歌。宴席にうたはれる歌から
 宴曲と云ひ、鎌倉時代の宴曲と関係が深い」とのこと。
 詞章の「……厳陵瀬の河の水」までは古代中国の水に関わる名勝、「月影流れ……」以降は日本の情景。

水のすぐれておぼゆるは 
 水(に関連する情景)で、優れて(趣深く)思われるものは、の意。
 以下、水に関わる名勝を挙げる。

西天竺の白鷺池(はくろうち) 
 天竺・王舎城の竹林の中にある池。王舎城は古代インドの都市で、釈迦が説法をした場所として知られる。
 「遠く天竺に仏跡をとぶらへば、(中略)礎のみや残るらん。白鷺池には水たえて、草のみふかくしげれり。」
 (『平家物語』巻第二「山門滅亡」)

しんしょう許由
 原本では「しむしやう許由」。詳細不明。
 「許由」を人名(古代中国の高士の名)と解する本もあるが、その場合全体の文意が不明瞭。
 また、「盡浄虚融(じんじょうきょゆう)」に拠る語で、澄み渡ったことを表す語とする説もある。
 この場合全体の文意は通るが、「許由」の字を当てた理由が不明。

昆明池(こんめいち)
 中国・漢の武帝が長安城の西南に掘らせた池。周囲四〇里。
 この池で水軍の訓練をしたと伝わる。

賢人の釣を垂れしは 厳陵瀬(げんりょうらい)の河の水
 『後漢書』に伝えられる、後漢時代に厳光という人が釣りをしたという東陽江の瀬の名。
 厳光は字(あざな)を子陵。若くして才あり、若き日の光武帝と同門に学んだ。
 光武帝が即位の後に厳光を探し、釣りをしているところを発見されて長安に召し出されたと伝わる。

月影流れもるるなる
 「水の宴曲」では「月影ながら漏るなるは」。
 また長唄でも「月影流れもるなる」と唄う場合もある。
 「流れ漏るるなる」の場合「なる」は断定の助動詞「なり」連体形で「流れ漏れているのは」、
 「流れ漏るなる」の場合「なる」は伝聞・推定の助動詞「なり」連体形で「流れ漏れるというのは」。
 次の句の「とかや」と合わせて考えると、伝聞で解釈する方が適切か。
 また、流れ漏れるのが月の光であるのか筧の水であるのかによっても文意が異なる。
 以下の詞章では、水にまつわる情景を列挙しながら、
 筧の水=月影=秋、氷水=冬、若水=春と季節の推移も同時に示している。

山田の筧の水
 「山田」は山を切り開いて作った田。
 「筧」は懸樋とも。節を抜いた竹や中心部をくりぬいた木を地上に掛け渡して水を引く樋。

芦の下葉をとづるは 
 従来「芦の下葉を/閉づるは」とするか「芦の下葉/訪づるは」とするか解釈が分かれていたが、
 「水の宴曲」に従って「芦の下葉を/閉づるは」とした方が文意も自然か。

三島入江
 三島江のこと。摂津国の歌枕で、現大阪府高槻市、淀川沿いの一部。
 「江」とは、浦が陸地に入り込んだところ。
 「三島江や霜もまだひぬ蘆の葉につのぐむほどの春風ぞ吹く」(『新古今和歌集』25番歌)
 「三島江の入江のまこも雨ふればいとゞしほれて刈る人もなし」(『新古今和歌集』228番歌)
 など。

春立つ空の若水は
 昔、宮中で、立春の日の早朝、主水司(もいとりのつかさ)が天皇に奉った水。
 また一般に立春の早朝、あるいは後世ではもっぱら元旦に汲んで用いる水。
 一年中の邪気を除くとされる。

尽きもせじ 「じ」は打消推量。尽きることはないだろう。



【成立について】

明治三十八年(1905)四月、東両国伊勢平楼にて、
四代目望月長九郎が七代目望月太左衛門(朴清)を襲名した折に開曲。
作曲五代目杵屋勘五郎、作詞大槻如電。

従来明治三十七年とされてきたが、稀音家義丸氏は、開曲時に配布された挨拶文・歌詞刷物に
「明治三十八年」「当巳年」と明記されていることを指摘し、
明治三十七年中に曲が完成していた(会の準備ができていた)ことから誤って伝えられたのではないか
と推察している。
(稀音家義丸『長唄雑綴』「長唄「島の千歳」開曲の周辺」による)



【参考文献】

淺野建二『日本古典全書 新訂中世歌謡集』朝日新聞社、新訂版1973.3
上田設夫『新典社注釈叢書10 梁塵秘抄全注釈』新典社、2001.6
杵屋五叟『五叟遺文』非売品
稀音家義丸『長唄雑綴』新潮社、2000
日本近代文学館『日本近代文学大事典』講談社、1978.11
日本古典文学大事典編『日本古典文学大事典』岩波書店、1983.10
丸茂美惠子『日本舞踊における娘形技法の実証的研究』(学位請求論文) ほか