紀文大尽
明治四十四年(1911)
作詞 中内蝶二
作曲 四代目 吉住小三郎 三代目 杵屋六四郎
〈一下り・本調子〉[第一段]
(凄まじき海上の暴風雨)

[第二段 船唄]
(暴風雨少しくしづまる、悲壮を帯びたる船唄遠くより聞こゆ)
鳥も通はぬ八丈が島へ 通ふわが身は厭(いと)はねど 跡に残りし嬶(かか)や子は 
どうして月日を送るやら

[第三段 船唄]
(暴風雨全くをさまる、歓喜の調を帯びたる船唄近く聞こゆ)
ヤンラ 幾夜あかしの浦漕ぐ船も 浮かれこがれて ソレ 磯へよる サァサァエッサヨヤサノサッサ

[第四段]
時に正保元年 霜月はじめつかた 続くあらしに海荒れて 船はものかは空翔ける 鳥さへ通はぬ浪の上 
はしらも折れよ帆も裂けよ 経帷子(きょうかたびら)に縄だすき 命知らずの船夫ども 
櫓声(ろごゑ)合せてエッシッシ 
只さへ難所と聞こゑたる 遠州灘を乗切って 品川沖に現はれしは名にし紀の国蜜柑船 
幽霊丸とぞ知られける

〈三下り〉[第五段]
積んだ蜜柑は八万五千籠 陸(くが)に運んで車に載せて 載せた車は八百五十輌 
ひけやひけひけ 神田の市へ 
ふいご祭の折からに 蜜柑の払底(ふってい)時を得て 一挙に握る五万両 黄金の花咲く 実も結ぶ 
初代紀文が運開き 幸先よしや (以上第五段まで夢)

〈本調子〉[第六段]
吉原の里は闇なき喜見城(きけんじょう) いつ更けたやら明けたやら 
さいつおさへつ杯の 数重なりし酒づかれ 
無明(むみょう)の酔(ゑひ)にとろとろと 雪のあしたの置炬燵 うたた寝の 夢の最中にまざまざと 
在りし昔の面影を見るも 親子の縁(ゑにし)かな 
几「文さまどうぞしたのかえ」 
背にやは手の音かるく 優しき声に覚まされて 
文「そもじは几帳か」
なつかしき その面影を見るにつけ 今のわが身のはづかしや 
文「実に世の中は不思議なものぢゃ 父は巨万の富を作り 我は巨万の富を消す」
人は一代 名は末代 作るも消すも世の中に 天晴(あっぱれ)をとこと唄はれて 
文「紀文の名さへ残るなら 本望ぢゃ満足ぢゃと 父の臨終(いまは)の教言(おしへ)」
所詮浮世は夢ぢゃもの 恋も無常もあるものか いや 恋いゆゑにこの苦労 
傾城に まことなしとはてんがうな そりゃ訳知りのいはぬこと まことも嘘も本ひとつ 
真ぞ命と此方から 尽すまことはくみもせで 逢瀬はかなき七夕の 雨に浪たつ天の川 
通ひ路絶えておのづから 他所へ根曳(ねびき)の身となりもせば かけし誓ひも嘘となる 
又初めから偽の勤ばかりに逢ふ人も 絶えず重なるその時は 初めの嘘も皆まこと 
几「縁のあるのが誠でござんす」
文「されば吾等も不即不離(ふそくふり) きのふも一蝶(いっちょう)が歌ふた小唄に ハテ何とやら」 
やぶれ菅笠 ヤンヤ 締緒が切れていの オウエイ 更に着もせず エイサンサ ヤアサンサ 棄てもせず 
文「おう そこへ見えたは二朱判吉兵衛(にしゅばんきちべえ) 
向ひの茶屋で奈良茂(ならも)めが 雪見の酒盛 今たけなはぢゃと聞いたは真か」
吉「なかなか」
文「大尽冥利その雪消して 奈良茂めに鼻をあかすも一興な 心得たか」
吉「心得ました」
幇間の二朱判 旨を受け 黄金色なす三百両 小判に小粒かきまぜて 黄色な雪がそりゃ降るはと 
おもてにばらばら撒き出せば 甘きに集ふ蟻の群れ 人波どっと押寄せて こけつまろびつ奪ひ合ふ 
塵もとどめぬ白妙の 雪のながめもたちまちに 踏みかへされて泥のうみ 
〈二上り〉[踊の唄]
沖のナア 暗いのに 白帆が 白帆が 白帆が見ゆる あれはナア あれは紀の国 紀の国蜜柑ぶねぢゃえ 
吉「大尽舞(だいじんまひ)を見さいな」  
抑々お客の始りは 高麗唐土(こまもろこし)は存ぜねど 今日の本にかくれなき 紀の国文左でとどめたり 
緞子大尽はりあひに 三浦の几帳を身請する 緞子(どんす)三本紅絹(もみ)五疋(ひき) 
綿の代まで相添へて 揚屋半四(あげやはんし)に贈らるる
二枚五両の小脇差 今に半四が宝物 ハハホ 大尽舞を見さいな 前代未聞の紀文が豪興 
廓一番ならびなき その全盛の一節を ここに伝へて 後の世がたり


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明治四十四年五月、長唄研精会の第九十六回例会で初演された曲です。
明治三十五年に立ち上げられた長唄研精会は、
それまでの長唄の枠にこだわらない新しい長唄を次々と発表しました。
「紀文大尽」もその一つで、組曲のように一曲をいくつかの段で構成したり、合間に台詞を入れたりと、
西洋歌劇を強く意識したつくりになっています。
作詞は著名な作家・戯曲家であった中内蝶二。著名な文人が作詞を担当する新曲は研精会の名物でした。
題材の「紀文大尽」とは、江戸時代の豪商・紀伊国屋文左衛門のことです。
ただし唄の中に登場するのは有名な初代ではなく、放蕩のうちに身代をつぶした二代目紀文。
初代の逸話は夢という設定で語られます。
初代の逸話を夢に見立てて朝寝をしている二代目につなげ、「泥の海」という言葉から再び初代を連想させる、
という構成は、数々の劇作をものしてきた戯曲家・中内蝶二ならではのもの。
元禄バブルの象徴的存在であった紀文を題材にしたこの唄は、
大正初期の造船景気を背景に、斬新な構成とあいまって当時の流行唄になったといいます。



【こんなカンジで読んでみました】 

[第一段]

[第二段 船唄](やや静まった嵐の中、悲壮な船唄が聞こえる)
「絶海の孤島・八丈島へ流されていく我が身が大事な訳ではないけれど、
 俺が流されたあと、残された嬶と子供はどうやって暮らしていくのだろうか…」

[第三段 船唄](嵐がおさまり、喜びの船唄が聞こえる)
「幾夜を海で明かしたろうか、明石の浦を漕ぐ船も、恋に浮かれ陸地に焦がれて、
 あなたの待つ磯へ漕ぎ寄っていくよ、サァサァエッサエッサヨヤサノサッサ…」

[第四段]
時に正保元年十一月初めのこと。続く嵐に荒れる海、船はもちろん空飛ぶ鳥さえ一羽もいない浪の上。
その海上に乗り出した命知らずの船がある。柱が折れても帆が裂けても構うものかと、
決死の覚悟の経帷子に荒縄だすきの船夫たち、櫓を漕ぐ声に力を込めてエッサッサーと、
凪でも難所の遠州灘を命からがら乗り切って、品川沖に姿を見せたその船こそが、名高い紀州の蜜柑船。
風雨に破れたその姿、死に装束の船夫たち、まるで幽霊船かと思われたものさ。

[第五段]
積み荷の蜜柑はなんと八万五千籠、陸に運んで車に載せて、載せた車はこれまた八百五十両。
さあさ車をひけやひけ、向かうは神田の青物市だ!
江戸ではまさにふいご祭りの真っ最中、しかも蜜柑がなくて大弱りとくれば、これぞまさしく時機到来、
一挙に手にした五万両の儲け。
黄金の花咲く実も結ぶ、これが豪商初代紀文の運の初めとなったわけさ、なんとも幸先いい話だねえ。

[第六段]
……吉原の里は不夜城、喜見城、さていつ夜が更け明けたやら。
呑んで呑ませて呑まされて、杯が行って戻ってああ酒づかれ。
醒める間のない酔にとろとろまどろむ雪の朝、ほんのり温もる置炬燵。
うたた寝の夢の中に昔の親父の面影を見た、これも親子の縁ってもんだろうか。 
几「文さま、どうかしたのかえ」
背中に柔らかい手がふわりと触れて、優しい声に目を覚まされる。 
文「そなたは几帳か」
懐かしい几帳の面影を見るにつけ、落ちぶれた我が身が恥ずかしいことだ。 
文「しかし本当に世の中とは不思議なものだよ、親父が一代で巨万の富をこしらえたかと思えば、
 俺は一代でその巨万の富を消すわけだ」
人は一代名は末代とは言うけれど、これほどの身代、
作るにしても潰すにしても見事な男だと世の中に唄われるほどのこの紀文。 
文「紀文の名さえ残ればいいと死に際に親父も言っていたこと、身代潰したとて恨まれもしまい」
所詮この世は夢だもの、恋も無常も意味がないさね。いやいや、恋ゆえに今この苦労をしているのか。
いいえ文さま、遊び女にまことがないとはふざけた言い分、本当の通人なら言わぬことです。
なぜといって、まことも嘘もその根っこはひとつだもの。
この人こそに命をかけてと、私達が尽くす思いはまるで気にもかけないで、
逢瀬がはかなく消えたのは、七夕の雨に天の川が溢れたからとでも言うおつもりか、
男の心移りに訪れが絶えてしまえばそれでおしまい。私達にどうすることもできやしない。
もし他の男に見請けされることにでもなったら、固く誓った思いさえ、嘘だったってことになる。
その逆に、はなから勤めのお相手さま、思いのかけらもなかった人も、途切れぬ逢瀬が重なれば、
いつの間にやらまるで間夫。嘘からはじめた男と女が、いつしかわりない仲になる。
几「つまりはお会いする縁があるのがまことでございましょうよ」
文「それなら俺とお前も不即不離、縁あってのことだろう。昨日も一蝶が歌った小唄、ハテ何と言ったっけ」 
♪(小唄)「破れた菅笠締緒も切れて、着ることはもう二度とない、それなのになぜ捨てられぬ…」 

文「お、そこへやってきたのは太鼓持ちの二朱判吉兵衛。
 そういえば向かいの茶屋で奈良茂のヤツが雪見の酒盛りをしていて、今まさにたけなわだというが本当か」 
吉「いかにもいかにも」 
文「ふうん。ま、俺も大尽、その雪を消して、奈良茂の鼻をあかしてやるのもまた面白かろう、
 な、おい分かったか」 
吉「心得ました」
幇間の二朱判、紀文の意を受け、キラキラ黄金を三百両、小判に小粒に色々まぜて、黄色い雪がソレ降るぞーと、
茶屋の外に撒き出したものだから、甘いものに集まる蟻のごとく人波がどっと押し寄せて、
転んだり転げたりしながら奪い合う。
塵ひとつない白妙のような雪の眺めも、たちまち人波に踏みにじられて泥の海。ああ、海といえば… 

♪(小唄)「沖の暗いところに白帆が見える、あれは紀の国蜜柑船……」
そんな風に初代の紀文が唄われた。一方こちらの二代目も… 
吉「さあさみなさま、大尽舞を見なさいな」
♪(大尽舞)「そもそも遊里のお客のはじまりは、よその国は知らないが、今の日本じゃ紀文大尽にきわまった。緞子大尽と張り合って、三浦屋の几帳を身請した。身請には、緞子三本に紅絹五疋、綿の代金まで添えたとさ、
揚屋の半四郎に贈った二枚五両の小脇差は、今でも半四の宝物だとさ、さあさ大尽舞を見なさいなー……」
そんな風に大尽舞に唄われた。
前代未聞の紀文の派手なお遊びは、廓で一番並ぶものなし。
その全盛の一場面をここに伝えて、後の世までの語り草としよう。


【登場人物について】
紀伊国屋文左衛門 
 江戸時代前・中期の豪商、生年は諸説あるが未詳、没年は享保十九(1734)年。
 紀伊国出身で、蜜柑の江戸出荷と木材調達で巨富を築いたとされる。
 歌詞中にもある嵐の船出や吉原での黄金まき(小粒金で節分の豆撒きをしたという説もある)の他にも、
 吉原を町ごと揚げて大門を閉め切りにした、客が来るたびに畳を新しく張り替えた、など数々の逸話が残る。
 しかし実際の紀文について判明していることは少なく、
 逸話のほとんどは後年歌舞伎や読み本などで脚色されて伝わったもの。
 歌詞のように父子二代の事跡なのか、初代一代の事跡なのかも含めて、不明な点が多い。

几帳 
 吉原京町の三浦屋抱えの格子女郎で、一説によると紀文に身請けされた。
 『吉原徒然草』に
 「はりのつよき女郎にて、我儘きずゐをせしかど、又うまき事ある故に、客もよろづをゆるしてなじみける」
 とあり、大層張り(=気)が強く自由気ままに振舞うが、そこが人気を得ていたことが分かる。
 また同書には、当時最新の食べ物であった切りそば(現在のそば)を好んで食べたというエピソードも伝わる。 

英一蝶 
 江戸時代前・中期の画家。
 はじめ多賀朝湖と称したが、ある事件で幕府の紀伊に触れて遠島になり、江戸に戻ってから英一蝶と改めた。
 画家でありながら俳諧・小唄もよくし、宝井其角や市川團十郎ら他分野の通人と交際。
 紀文を中心に、文化サロン的交友関係を築いていたと考えられる。 

二朱判吉兵衛 
 歌舞伎の道化役の役者・中村吉兵衛。幇間としても活躍し、大尽舞の創始者として伝えられる。
 「二朱判」という二つ名の由来は、体が小さいながら歌舞伎番付で「上々吉」をとったことがあり、
 小さくても値が良かった当時の二朱金に例えられたもの。 

奈良屋茂左衛門 
 紀文と並んで有名だった豪商、通称奈良茂。
 初代から江戸に住み、四代目が日光東照宮の改築に携わって資材調達で巨万の富を得たと伝えられる。
 吉原や芝居茶屋での豪遊で、紀文と張り合った逸話が残る。

(大尽舞の詞)
緞子大尽  未詳。通称からして、織物関係の富者か。

揚屋半四 
 几帳の揚屋だった和泉屋半四郎。
 『近世奇跡考』(山東京伝、文化元(1804)年)の「紀文伝」の項に、
 「又あるとき揚屋町泉屋半四郎がもとにて、升に小粒金を入て蒔あたへしと云伝ふ」とあり、
 和泉屋が紀文の吉原豪遊の舞台になっていたと考えられる。



【歌詞について】
正保元年 
 1644年。紀文の生年は一説に寛文九(1699)年であるので、時代にずれがある。
 おそらく先行作品(歌舞伎や読本)に拠ったものと思われるが未調査。

ものかは
 「(とりたてて言うべき)ものであろうか、いやそうではない」の意で、強い反語を表す。
 問題ではない、言うまでもない。

経帷子(きょうかたびら)
 仏教の葬儀の際に死者に着せる、白麻地に真言や題目(=経)を書いた着物。船夫たちの覚悟を表している。

遠州灘 
 静岡県の御前崎から愛知県渥美半島の伊良湖岬に連なる海域。
 俗に海上七十五里と言われ、直線状の砂丘海岸で港が少なく冬の西風が強いことから海運の難所とされた。

神田の市 
 俗にヤッチャ場と呼ばれた、神田青物市。
 神田には江戸初期から青物(野菜・果物)問屋が集まり、江戸城内への野菜納入を担う御用市場となっていた。

ふいご祭り 
 鍛冶屋などのふいごを用いる人々が行う、旧暦11月8日の行事。
 江戸では往来の子供たちに蜜柑を播くのが通例となっていた。

払底  底を払って、後は何もないこと。物が非常に乏しくなること。この年は蜜柑が不作であったと伝わる。

喜見城 
 仏教で帝釈天が住んでいるとされる城の名。須弥山の頂にあり、天人たちが遊ぶところとされる。

さいつおさへつ 
 「差しつ押さへつ」で、杯を差したり押さえたりのやりとりをする様子。

無明の酔
 「無明」は仏教語で、真に暗いこと。一切の煩悩の根源とされる。人の心をくらます酒の酔い、の意。

置炬燵 
 置き場所を変えられる(持ち運びできる)炬燵。

そもじ  そなた。元は女房詞。

人は一代名は末代 
 人の身は一生が終われば滅びるが、名声や名誉は永く後の世まで残ること。

天晴(あっぱれ)
 元は「あはれ(=感動した時に発する語、ああ)」で、「すばらしい」「すごい」の意。

浮世 
 「うきよ」は表記・場面によって意味が正反対になる語で、
 「憂き世」は「生きることの苦しい世・無常の世」、「浮き世」は「享楽にあふれる世界」。
 「浮き世」の場合、江戸時代には「浮世草子」「浮世絵」のように、
 他の語につけて「現代的・好色な」の意味も表した。

無常 
 「永遠に常なるものはなく、万物は生滅・変化する」という仏教の教え。
 転じて人生のはかないこと、死ぬことも表す。

てんがう 
 発音は「てんごう」。ふざけること、冗談、いたずら。また、筋違いなこと。

訳知り 
 現在は一般的に「物事に事情に通じている人」という意味だが、
 本来は遊里語で「情事の機微や遊里の事情に通じている人」、つまり粋人・通人のこと。

根曳 
 松などを根のついたまま引き抜くこと。転じて遊女や芸者を身請けすること。

不即不離 
 二つのものが付きもせず離れもしない関係を保つこと。

やぶれ菅笠~棄てもせず 
 小唄の文句で、「どうにもならないことだが、諦めきることもできない」の意。

なかなか 
 狂言などで、相手の言葉を受けて肯定する語。「そのとおりです」「いかにも」。

沖のナア~蜜柑ぶねぢゃえ 
 小唄の一節。かっぽれに同文句が残る。(成立未詳)。

大尽舞 
 江戸吉原の幇間が踊った囃子踊のひとつ。全二十五段の歌詞のうち数種が今に伝わる。
 創始者は享保の頃の江戸歌舞伎役者の中村吉兵衛とされており、彼が歌詞中の「二朱判吉兵衛」。

高麗唐土 
 高麗は朝鮮半島、唐土は中国大陸だが、ここでは単に「日本以外の国」の意。

緞子(どんす) 
 模様を織り出した高級な絹織物の一種。

紅絹(もみ)
 紅で無地に染めた高価な絹布。「もみ」の名は紅花で揉んで染めることから。
 


【参考】

・大正時代に発行された素人向けの長唄指南本『長唄の心得』(小谷青楓、大正九年(1920)、玄文社)に、節付についての記述がある。


 
これは明治四十四年に研精会の新曲として披露した物でございます。中内蝶二氏の作、吉住小十郎と杵屋六四郎の節附で『鳥羽の恋塚』などと共に研精会の傑作として専(もっぱ)ら上流社会に持囃(もてはや)されて居(お)りますもの、誠に変化に富んだ面白い唄でございますが、この曲が在来の長唄と趣を異にした所は、西洋音楽に倣(なら)って一曲を各小節に分け、而(しか)して一節が唄なしで器楽ともいふべき部分のあります事で、中内氏は「タイムの関係を表すためにあゝいふ事にした」と言はれて居りますが、長唄としては全く前例のない、新しい形式でございます。…(後略)





元禄文化サロン・・・富貴者、芸能者、文学者らの交流

               松尾芭蕉(俳人)
                 ↓師弟

紀 文(豪商)  ←師弟    宝井其角(俳人)   ←交流→ 二世市川団十郎(役者)
   ↑      ?        ↑           ?
  交流      交流      交流         交流
   ↓         ?      ↓          ?
中村吉兵衛(役者・幇間)   英一蝶(画家・幇間)  
  


【参考文献】
 吉住慈恭『芸の心』(毎日新聞社、1971年)
 日本音曲全集『長唄全集』(中内蝶二・田村西男編、日本音曲全集刊行会、1927年、作詞者本人による校注あり)
 藤田徳太郎校訂『声曲類纂』(齋藤月岑著、弘化四(1847)年刊、岩波書店、2001年)
 ほか