〈本調子〉
それ伝へ聞く茂林寺の 分福茶釜のその由来 あやしくもまた面白き
昔々そのむかし 婆くった爺が狸汁 縁の下屋の骨までも
広尾の原の狸そば のびた鼻毛を頬かむり 狸長家を まはろまはろまはろ オオそそり節
山で寝る時ゃ木の根が枕 柴をしょったら気をつけろ 火の用心さっしゃりましょ
オヤ源さん 何処へ穴っぺいりをしておいでだえ もしちょっとお寄りナ
ヨセひどいことをするナ まだ背中のやけどがなほらねえア
お気の毒 ここに狸のあんぽん丹 呑んでくだまくエエなうまくさまんだばさらんだ
狸にござる法印さん 自体われらは田舎のうまれ 月に浮かれて腹鼓 打つやうつつの夢の世を
狸寝入りかア あら不思議や 忽ち広がる大金玉
八畳敷の爐にかけし 茶釜しっぽをオヤオヤオヤ ふりたてて狸ばやしの音につれて
〈二上り〉
或はかるわざ 綱わたり さてさてさてさて 此度のかるわざは 綱の半ばへ
金玉を引かけ 是を名づけてたんたん狸の 夢の枕ぢゃ おもしろ狸の角兵衛獅子
神変不思議の有様は 治まる御代のはなしぐさ 今もその名や残るらん 今もその名や残るらん
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昔話「分福茶釜」「カチカチ山」をベースに江戸のユーモアを盛り込んだ、タヌキ尽くしの曲です。
タヌキは人を化かすといわれる動物ですが、素朴で愛嬌があり、どこか憎めない印象を抱かせるもの。
しかしタヌキが滑稽な動物とされたのは近世中頃以降のことで、
近世初期のタヌキは人に害をなす恐ろしいあやかしとして描かれることが多くありました。
この曲にも、そんなタヌキの残酷な面影がちらりとのぞきます。
人を化かす動物と言えばタヌキと並んでキツネが挙げられますが、
キツネが女性的に描かれることが多いのに対し、
タヌキはこの曲のように男性的に表現されることが多いのも特徴のひとつといえます。
さて、この長唄「たぬき」には、タヌキにちなんだ地口(似通った音を使って俗語を言い替える洒落)が
いくつも隠されています。
私たちには意味が分からない言葉も、実は江戸の人にとってはおなじみの言葉を使った洒落なのです。
さながらタヌキに化かされているかのような不思議なこの曲。
私がまだ見つけていない地口に気付いた方は、ぜひ教えて下さい。
【こんなカンジで読んでみました】
上野国の茂林寺の、分福茶釜の言い伝え、これまた不思議に面白いものさ。
さてさて、どんな話だったっけ…
むかーし昔のそのむかし、哀ればあさんを食わされた、とんだじいさんの狸汁、
縁の下に捨てられたばあさんの骨を拾おうと、ひろおうと、
広尾と言えば広尾が原の狸そばが今に有名さ。 あれ?
じゃなくて、えーと、
のびたソバでもあるまいし、女の色気に鼻毛伸ばしたタヌキめが、デレデレ顔に頬かむりして、
局長屋をふらふらうろうろ、鼻歌まじりでいい気なもんだぜ。
じゃなくて、えーと、
山に住んでるタヌキの話だ、ウサギに柴を背負わされて、
おおい、その女はウサギかキツネか、どっちにしても用心用心、
うまいこといってる時こそヤケドしないように気をつけなよ。
「あらちょっと源さん、ずいぶんお見限りだこと、
どこのいい人のところに入り浸ってンのよ、ねえ、ちょっとお寄りなさいな♪」
「よせよう、俺ァお前にゃこりごりしてんだ、こないだだってお前、ひどいよ、ええ、……そお?」
へっ、ありゃまた女にしてやられるぜ、なんともお気の毒さま。
腹が痛けりゃご存じ田町の反魂丹だが、こいつァタヌキのあんぽん丹ってとこだ、
一粒呑んだら何やらごちゃごちゃ、ノーマクサーマンダーバーサーランダーって、
田町ならぬタヌキの法印さんの言うことにゃ、
元々われらは田舎の生まれ、月に浮かれてぽんぽこぽんぽこ、打てや打て打て腹鼓、
打つのはうつつ、いやいや夢の世の中よ、むにゃむにゃむにゃ…って、おーい狸寝入りかいっ。
そんなことをしてる間に、あららら不思議、見る見るうちに広がって、八畳敷きの大金玉。
じゃなくて、えーと、何の話をしてたっけ。そうだそうだ、分福茶釜のお話だ。
八畳敷の部屋の中、炉にかけた茶釜がしっぽを出したよ、おやおやおや、
しっぽふりふり逃げて行くかと思ったら、どこから聞こえるタヌキ囃子の音につられて、
なんと軽業、綱渡りのご披露ときた。
タヌキの口上、
「さてご披露する軽業は、この綱の途中に金玉を引っかけて昼寝をしてご覧に入れる。
これを名付けて、邯鄲の夢の枕、もとい、たんたんタヌキの夢の枕じゃ」
いやはや面白いタヌキの軽業師だよ、なんとも不思議、なんともあやしの有様は、
太平の世の話のタネに、今も残っているんだろうね、分福茶釜の物語。
【「分福茶釜」と「カチカチ山」】
どちらもタヌキにまつわる昔話だが、時代によってさまざまな話型がある。
以下は現在の一般的なあらすじ。
(「分福茶釜」)
ある寺の和尚さんが古い茶釜を買ってきて火にかけたところ、茶釜が「熱い!」と悲鳴をあげた。
気味悪く思った和尚さんが道具屋にただで譲ったところ、道具屋は茶釜の正体がタヌキだと知る。
古道具屋はタヌキが言う通りに見世物小屋を作ってやり、「分福茶釜」と銘打って軽業を披露して富を築く。
タヌキが茶釜姿のまま亡くなった後、古道具屋はお寺に運んで供養してもらった。
その茶釜は茂林寺に今も伝えられているという。
(「カチカチ山」)
翁(おじいさん)が畑にまこうとしていた豆を、タヌキが全部食べてしまった。
怒った翁たぬきを縛り上げてお婆さんに預け、畑仕事にでかけた。
狸は媼(おばあさん)に命乞いをして縄を解かせ、媼を殺してしまう。
悲しむ翁をみかねたうさぎが仇を討つと約束する。
うさぎはタヌキに薪を背負わせ、火をつけて狸に大やけどを負わせる。
その後、やけどの薬と言って味噌に唐辛子を混ぜて摺ったものをぬり、追い打ちをかける。
そして仕上げに魚を食べさせると言って、泥で船を作らせて狸をおぼれ死にさせる。
【語句について】
茂林寺
群馬県館林市にある、曹洞宗の寺院。室町時代の応永三十三(1426)年開山。
「分福茶釜(茂林寺の釜)説話」が伝わる寺として有名(松浦静山『甲子夜話』ほか)。
茂林寺で千人法会が催されたとき、開山以来代々の住職に仕える守鶴という僧が一つの釜を持ってきた。
この釜は不思議といくら湯を汲んでも尽きることがなく、守鶴はこの釜を自ら
「紫金銅分福茶釜」(福を分け与える茶釜)と名付けた。
時代が下って後、守鶴は熟睡していた際に手足に毛が生え尾を出し、狢(むじな)の姿を現してしまい、
自分の正体は数千年生きた狢だと明かして飛び去る(茶釜に手足が生えたとする話系もある)。
また茂林寺の話とは別に、貧しい男が狸を助けたところ、狸が恩返しとして茶釜に化けて道具屋を転々とし、
見世物小屋で茶釜踊りを始めて男に富をもたらした、という筋の昔話がある。
現在伝わる昔話の分福茶釜は、本来は別々であったこれら二つの系統の話が混ざり、
さらに近世以降の狸の滑稽化・笑話化が加味されたもの。
分福茶釜
【分福茶釜とカチカチ山】参照。
婆くった爺が狸汁
「カチカチ山」で、媼に縄を解いてもらったタヌキがお婆さんを殺し、
その肉をあつもの(汁)にして翁に食べさせたこと。現行の昔話では削除されることが多い。
縁の下屋の骨
下屋は「下家」と同義。地下につくってある部屋、また単に床下のこと。
タヌキが殺した媼の骨を縁の下に捨てたことをさす。
「カチカチ山」の原話である江戸時代の赤本(子供向け草紙)『兎大手柄(うさぎのおおてがら)』では、
媼のあつものを食べた翁に対し、タヌキが「婆食らひの爺いめ。流しの下の骨見ろ」
の捨てせりふを残して山へ逃げる。
広尾の原の狸そば
「広尾」は「(骨を)拾お」との掛詞。現在の港区麻布・渋谷区広尾にあたる地域。
渋谷川を挟んだ百姓地で「広尾が原」と呼ばれ、大名の下屋敷(別邸)などのある江戸郊外の地だった。
ここでいう「狸そば」は揚げ玉の入ったいわゆるタヌキそばではなく、広尾にあった有名な蕎麦屋のこと。
安政元(1854)年序文、四壁庵茂蔦の随筆『わすれのこり』に
「…広尾狸蕎麦、広尾狐うなぎ / 皆流行なりしが今あるも有、なきもあり」
との記述がある。また同年(元号は嘉永七年)板・尾張屋切絵図「目黒白金辺図」でも、
「広尾原」とかかれた田畑の中、古川の南西に「狸蕎麦」、その東方に「狐鰻」と書かれている。
狸そばの由来としては、そば屋が客から受け取った金が木の葉に変わったからとも、
もともと狸の供養塚があったからとも伝わり、麻布七不思議のひとつに数えられることもある。
なお、この狸そばの跡地は明治時代に福沢諭吉が別荘として購入、現在は慶應幼稚舎の敷地にあたる。
その前を流れる古川に架かる橋に、今も狸橋の名が残る。
のびた鼻毛
「(狸)そば」の縁で「のびる」を導く。「鼻毛をのばす」で女性の色香に迷うこと。
頬かむり
頭から頬、顔にかけて衣服や手拭などでおおい隠すこと。
転じて、知っていながら知らないふりをすることにもいう。
人目を忍ぶことを表す姿であり、盗人や逃亡者の他、
こっそり遊里や情人の元へ通う色男(あるいは色男気どり)のかたちであることが多い。
狸長家
前後の詞章から、庶民の住居としてのいわゆる「長屋」ではなく、
局見世・鉄砲見世と同義の「局長屋」を指す。
局長屋は時間を短く区切って安価な売春宿のことで、岡場所の他、吉原にもあった。
棟割り長屋式の建物で一間ごとに女がいたので通称「長屋」、ここで働く女性を「長屋女郎」と呼んだ。
そそり節
「そそる」には 1.高くそびえ立つ 2.心が浮き立つ、そわそわする の他に
3.遊里をひやかして歩く、遊里に通う の意味がある。
「そそり節」は客が遊里をひやかして歩くときに口ずさむ唄。
山で寝る時ゃ木の根が枕
山中を旅すること、山中で生活すること。石工が唄った石切唄などに同文句がある。
柴をしょったら気をつけろ
「カチカチ山」で、兎が狸に柴を背負わせ、うしろからその柴に火打石で火をつけたことを示す。
源さん
「カチカチ山」のタヌキを擬人化して呼びかける呼称。なぜ「源さん」なのかは不明。
前の詞章や続く会話から、遊里通いをし、欲に流されやすく間の抜けた男性に擬していることが分かる。
タヌキに声をかけている女性がウサギの擬人化で、こちらは源さん=タヌキを誘惑する立場。
「カチカチ山」のタヌキを男性、ウサギを女性とした作品には太宰治『お伽草紙』「カチカチ山」があり、
同作品冒頭で太宰は
「カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる
醜男。これはもう疑ひを容れぬ厳然たる事実のやうに私には思はれる」
と書いているが、本曲はこれに通じる設定といえる。
穴っぺいり
穴っぱいり・穴ばいりとも。
カニやウナギなどが穴に入るように、ひそかな場所へ潜り込むこと。
道楽にうつつをぬかすこと、特に情婦の元へ入りびたりになることを指して言う俗言。
狸のあんぽん丹
「田町の反魂丹」の地口。
田町は芝・田町(現港区・三田)で、ここにあった堺屋の反魂丹のこと。
食傷・腹痛の薬として有名であった。
間が抜けていて愚かな者をののしって言う「あんぽんたん」を丸薬の名のようにもじった表現。
くだまく
管を巻く。管は糸を巻き付ける糸車の軸のこと。
糸を巻く時にぶんぶんと音を立てることから、酒に酔ってとりとめのない事をくどくどと言うこと。
なうまくさらんだばさらんだ
「ノウマクサンマンダー…」で始まる不動明王の真言。
真言はサンスクリット語でいうマントラ。密教教典に由来する真実の言葉、仏・菩薩の深い言葉とされ、
音が重要であることから翻訳されず音写される。
ここでは不動明王が修験者(=山伏、下記の「法印」)によって信仰されていたことから。
狸にござる法印さん
近世の俗言「田町にござる法印さん」の地口。
ここでの田町は浅草日本堤の南側にあたる地名で、吉原に通う客のための貸編笠屋(のちの引手茶屋)が
多くあったところ。
この田町に住む山伏(法印)は易占いで有名であった。
嘉永二(1849)年刊の滑稽本『花暦八笑人』五編にも「狸にござる法印さん」とあり、タヌキへのもじりは
本曲以前からよく知られた表現であったと考えられる。
法印は864年に定められた僧侶の最高位で、空海・最澄・真雅の3人に与えられたのが最初。
ただし中世以降は仏師・医師・連歌師などにも与えられる称号となり、
江戸時代には山伏や祈祷師を指しても言うようになった。
自体われらは田舎の生まれ
長唄「二人椀久」に「自体某は東の生まれ」の詞章が、
また本曲と同じ二代目杵屋勝三郎作曲「風流船揃」に「自体われらは都の生まれ」の詞章がある。
下記「打てやうつつの…」の類似と合わせると、勝三郎が自作を意識して滑稽化したとも考えられる。
月に浮かれて腹鼓
「狸ばやし」の項参照。
タヌキの腹鼓の初出は『夫木和歌集』(1310年頃、藤原長清撰)収録の和歌
「人住まで 鐘も音せぬ 古寺に たぬきのみこそ 鼓うちけれ」と考えられており、
中世には既にタヌキと「音の怪」が結び付けられ、その音が「鼓」と表現されていたことがわかる。
ただし絵画を見ると、十八世紀ころまではタヌキの腹は平たく描かれたものが多い。
丸く膨れたタヌキの腹の流行は十八世紀以降で、その要因としてタヌキと禅寺の連想関係、
禅宗における「円」の流行などが指摘されている。
打てやうつつの夢の世を
「うつつ(現)」は(夢に対して)覚めている状態、(死に対して)生きている状態。
「打つ」「うつつ」で音を重ね、「うつつ」の対義語として「夢」を導いている。
『伊勢物語』第九段の和歌「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人を思はざりけり」を踏まえた表現。
「小鍛冶」の「打てやうつつの宇津の山」、「風流船揃」の「打てやうつつの浪の船」等、
長唄に類似表現が多い。
狸寝入り
眠ったふりをすること。空寝。
本来は遊女を待つのに眠ったふりをしている遊客を指した言葉で、
遊女の手練手管をキツネに例えるのに対して言う。
忽ち広がる大金玉
タヌキの睾丸が大きく八畳敷(一説に十畳)の大きさにまで広がるという俗言。
初出は『本朝食鑑』(1697年刊行の本草書)と見られており、
その他のタヌキに関する言説と比べるとそれほど古くない。
当初は平面的に(平たく)広がるものとされ、「人を包み込む」など人に害をなす行為であったが、
時代が下るにつれて丸く膨らむものとされ、恐怖の対象から滑稽性が強調されたものに変わっていった。
実際のタヌキの睾丸は特に大きなものではなく、このような俗説が生まれた理由としては
・タヌキの男性性(近世以降、タヌキは男性に化けることが多い)
・しっぽを股の前方に挟む習性があること
・十八世紀後半、巨大な陰嚢を見せる門付乞食が江戸の各地にあり、人々に知られていたこと
・タヌキの皮が製鉄の際のふいご(丸く膨らむ)に用いられていたこと
などが挙げられている。
八畳敷
上記参照。
なぜ「八畳」の大きさなのかについては、上の理由に加えて
金職人が金をタヌキの皮に包んで金箔を製造し、八畳の大きさにまでのばすことからと言われる。
爐
炉。床を四角く切って火を燃やし、暖を取ったりものを煮炊きしたところ。
茶釜しっぽ
「分福茶釜」で、茶釜に化けたタヌキが炉で火にかけられて手足・しっぽを出したこと。
狸ばやし
月の照る深夜、どこからともなく笛や太鼓などの囃子が聞こえてくるという音の怪。
囃子をまねて狸が腹鼓を打つものと言われ、
江戸では本所七不思議(馬鹿囃子)、番町七不思議(狸囃子)の一つに数えられる。
遊興地の音曲が風で遠くまで聞こえたもの、あるいは祭りの前に隠れて囃子の練習をしていたもの等、
その原因は諸説考えられている。
かるわざ
綱渡りや竿のぼり・輪抜けなど、人目を驚かす危険な動作を身軽に演ずる芸能の総称。
奈良時代に中国から伝来した猿楽を元として日本で独自の発達をした。
寺社の祭礼時の見世物として広く庶民に親しまれ、江戸時代末期には独立した興業もひらかれた。
幕末以降日本の軽業は諸外国から高く評価され、明治以前に欧米から招聘されて公演を行う者もあった。
1872年に発表されたフランスのジュール・ヴェルヌ作『八十日間世界一周』でも、
「日本人が世界でも随一の曲芸の名手であることは認める必要がある」と賞賛されている。
たんたん狸の 夢の枕じゃ
「邯鄲(かんたん)の夢の枕」の地口。
軽業の技のひとつで、網や支柱などに支えられながら、肘枕をして身体を空中に横たえる技。
昔、立身出世を望む廬生という若者が趙の都・邯鄲で呂翁という仙人から借りた枕でうたた寝をしたところ、
富貴をきわめた五十年の夢を見たが、目覚めてみると炊きかけの粟がまだ煮えないほどの間であったという
中国の故事に由来する。
角兵衛獅子
門付芸・曲芸のひとつ。
獅子頭を被り、鶏の尾をつけた子供達が、笛や太鼓にあわせて逆立ちやアクロバティックな踊り回りなどの
技を見せるもの。
神変不思議
人知でははかり知ることのできない不思議なこと。
はなしぐさ
「話し種」。「種(くさ)」は多く動詞の連用形について「ぐさ」と濁り、物事を起こすたね、もとを表す。
話のたね。
【成立について】
曲名「昔噺狸」とも。作曲は二代目杵屋勝三郎。
『長唄全集』では元治元(1864)年六月の成立、
『長唄閑話』では慶應元(1865)年一月、木場宴会余興に作曲された曲とする。
【参考】
倉田喜弘『芸能の文明開化』(1999年、平凡社新書)
稀音家義丸『長唄閑話』(2002年、新潮社)
中村禎里『狸とその世界』(1990年、朝日選書)
前田勇編『江戸語大辞典』(2003年、講談社)
『日本伝奇伝説大事典』(1989年、角川書店)
太宰治『お伽草紙』「カチカチ山」(『太宰治全集』第8巻、筑摩書房)
ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』(鈴木啓二訳、2001年、岩波書店)
俵元昭『港区史跡散歩』(1992年、学生社)
『麻布区史』(1931年、東京市麻布区役所)
『わすれのこり』(『続燕石十種』第二巻所収)
茂林寺ホームページ ほか