犬  神
文化九年(1812)十一月
作詞 二代目 桜田治助
作曲 二代目 杵屋正次郎
〈本調子〉 
蝿営たる狗苟と韓非に載せられし 巻尾けんてい自から 此身に受けて浅ましや 

〈二上り〉 
我も北斗を拝しては 心のままに姿をも 写すや池の水鏡 かづく玉藻に梳る 
其通力も忽に 蘭麝の香の馥郁と 薫りに恐れ本性を 見るにこはさも忍ばれず 野干の体顕せし 
はかなの己が有様や 野末の草の葉隠れに 葛のうらみの恨めしく 親の敵をうつつにも 
夢にも忘れやるかたも 泣いて明かしてくよくよと 焦がれて燃ゆる狐火は 
ほむらとなって去りやらぬ 煩悩の犬の如何にせん 絆に繋ぎ纏はれて 

〈三下り〉 
臥して見寝て見執着の なほ去りやらぬ思ひにより 
我は化たと俤を 慕ふに余る口惜しさ 酬はんものと立寄れば 毛衣さっと振乱し 
眼鋭くいきまきて 寄らば食はん勢に ぱっと飛退き振回り エエ云効もなき涙の雨 
はらはらはっと目に添ひて かかる憂き事なき身ぞならば 花を飾りて品繕うて
嫁入嫁入と里の子に 囃し立てられしっぽりと 露のかごとを草枕 独り葎の床の内 

〈二上り〉 
眠るとすれど犬墳の ちゃっと起き立ち身をふる尾花 此方は尾を巻き狙ひ寄る 
寄せじと哮れば 飛び退いて 瞋恚の剣 忿怒の牙 磨ぎ立て 挑み合ふ [合鼓唄] 
親の別れの其場より 所定めずうろうろと 恋しゆかしはさながらに 人間よりも百倍の 
思ひ重なる胸の内 仇も報いも白真弓 犬追物や鼠罠 かかるも知らぬ輪廻に引かれ 
引かれ引かれて さは云へ親の怨みの笞と菊おっとり 打ってかかれど寄せつけず 
貞女を護る張然犬 楊清李信が犬とても かくはあらじと耳逆立て 吼ゆれば叫んで駈け向ひ 
追つ返しつ其風情 去なうやれ 我古郷へ戻ろやれ 其名玉をと立ち懸るを 頼賢やらじと引留むる 
千枝狐が帰り咲き 姿の花や六つの花 木毎の花の顔見せは 目出度かりける次第なり