漁樵問答
明治十年(1877)

作曲 三代目 杵屋正次郎
[謡] 
歳を経し 美濃の御山の松影に なほ澄む水の緑かな 

〈本調子〉 
通ひ馴れたる老の坂 たどたどしくも多度の山 荷ふ真柴の杖とめて 瀧の傍に息らひぬ 
見上れば 三十六峰峨々として 万尺の飛泉こうこうたり 湧きて岩間の潔き 水は薬となる瀧の 
絶えずも老を養ふゆゑに 養老の瀧とは申すなり 実にやその名の遙けくも 
雲井に響く瀧津瀬や 水また水はよも尽きじ 龍の都を別れ路の つとに貰うた玉手箱 
貰やもろたが あけて見るなと誡められて せたら負うても草臥れまうけ 恋の重荷を掛替へて 
釣竿をかたげ来りける

〈二上り〉 
馴来し亀の背を離れ 物珍しき深山路に 逢ふも奇縁の漁夫樵夫 ここに暫く

〈本調子〉 
柴居して なうなう それにわたらせ給ふは 何人にて候 我は此辺に住居する樵夫にて候が
してまれ人には何方より来り候ぞ 
我は又龍の都を立出でて 波濤遙に帰朝の漁夫にて候 然らばここにて海と山とを 
問ひつ 答へつ いざいざ語り申さうずるにて候 
そもそも蒼海の鯨鯢は そは深山も虎狼にいづれ 浪に鼓の声あるは 松にかきんの調べあり 
足洗はんか 耳洗はんか 又味うてみさご鮨 呑んで見ざるは猿酒なり 
さる酒よりも此瀧の 老を養ふ仙徳の 泉は酒となり瓢 いざいざ水を掬ばん 
漁夫は筐を取出でて こは何やらんかかる時 餓凌げとや贈りけん 
彼所は手酌瓢酒 此処には開く玉手箱 ぱっと煙りのたちまちに まだうら若き浦島が 俤変る頭の霜 
それに異りて源丞内 墨にや染まる鬢髭の 老の姿も若水に 互に照らす二面 
あけて悔しき玉手箱 呑んで嬉敷瓢酒 老も若きも経る年の 万歳の道に帰りなん 万歳の道に帰りなん