9月1日(木) 志の輔らくご 浜松
浜松で月またぎ。
朝、なんと天気は持っている。
ならば18ホールまわれそうだ。
夕方、浜松駅に到着する志の輔師匠を迎えに行き、そのまま楽屋入り。
志の春さんも来た。
二つ目になるとなかなか会う機会がなくなる。
久しぶりに会えてうれしかった。
彼の出囃子を弾いた。
子どもが育って行く感じがした。
そんなことで僕の出番はないだろうと思っていたら、
志「ちょっと行ってきてくれー」
袴はいて舞台へ。
あら、最前列しか見えない。
普通、客席を真っ暗にしても舞台の明かりが客席にはねかえってボーっと見える。
それがなかった。
だからどうということではないが、その感覚が久しぶりだった。
打ち上げの後、師匠たちと浜名湖のとある宿泊施設へ。
びっくりするほどきれいで豪華で。
「びっくりするほど」ではなく「びっくりした」
ここで宴会。
2日(金)
朝目が覚めた。
二日酔い。
窓の外はゴルフ場。
暴風雨って感じだ。
でもゴルファーたちがいる。
僕らもやるかやらないかを検討。
ハーフだけすることに。
こんな中でやるなんて良い経験である。
浜松駅まで戻ってきて
うなぎを食べて新幹線へ。
志の輔師匠、10分で熟睡。
東京駅まで寝た。
まー、よくお休みでしたわ。
おつかれさまでございました。
3日(土)
さて、9月のお稽古日が今日から始まる。
台風の影響で気圧がへんなのか猫たちはダラーっとしている。
4日(日) 伝の会新宿編
何年も続いている新宿ブラックサンでの伝の会昼夜。
台風が去り天気になった。
5日(月) 岡山稽古
昨日DVDを何本か借りてきた。
資料である。
岡山行きの新幹線の中で見る。
そして岡山のお稽古。
終わってお弟子さんたちと一杯飲む。
ホッとする。
その繰り返し。
それで良いのだ。
6日(火) 中村獅童トークディナーショー 久留米
先月だったか獅童さんのお母さんから電話がかかってきた。
あたしゃ、20歳くらいのときからお世話になっている方である。
母「ちょっとさ、獅童を手伝ってあげなさいよ」
テ「はい」
「はい」と言うしかない感じがなんともうれしい。
トークディナーショーを二箇所でやるのだが、スケジュールを見たら空いてい
る、なんとかなる。
この辺もお母様の運のスゴイとこ。
台本見たらもっとスゴイ。
三味線を弾くだけなのかと思ったら、トークもふんだんにある、というか、最初
からずーっと舞台に出てる。
こんな面白いことはない。
獅童さんも「いいんじゃない、アツシさん得意そうじゃん」と言う。
ならばとドキドキするがやってみることにした。
新幹線で博多へ行き、九州新幹線で久留米に着いた。
ものすごく暑い。
岡山はちょいと秋を感じたが、久留米はまだまだ夏真っ盛りな感じだ。
ステージは19時30分と21時30分の二回。
いやいや盛り上がった盛り上がった。
誰もどうなるかわからない舞台だったが大盛況であった。
獅童さんの魅力あふれんばかりであった。
ホッとした。
7日(水) 那覇稽古
もっと夏真っ盛りな沖縄に来た。
お稽古してステーキ食べてカルチャースクールやって那覇空港に戻ってる。
ラウンジでビールを一杯飲む。
今日も終わったぞと感じる時間である。
そして羽田に着くまでぐっすり寝る。
羽田空港についたらいろんな標識がリニューアルされていた。
8日(木)
ふーー、予定はあったのだけどやめにしてゆっくり寝た。
休日にすることにした。
うむ、休むことは大事なことだ。
身体がガタガタ言ってるのがわかるし。
お腹が減ったので何か食べに行こうと思う。
ついでにDVDを返却に行こう。
「レッドクリフ」と「BECK」を新幹線の中で見た。
娘が「『BECK』はおもしろいよーー、絶対に通してみちゃうよーー」
と言っていたとおりだった。
「日輪の遺産」を観に行きたいのだが
明日の午前中かな。
クリーニングにも行ってこなくちゃな。
あとは打ちっぱなしか。
クラブを積んで出かけよう。
宇太は元気に玄関で寝ている。
大根おろしが何より好きなのでたくさん作った。
しらすも買ってきた、おいしそうな鮭と納豆と。
そんなのが我が家の夕食。
贅沢メニューなのだ。
家にいるときはこういうのが食べたいといつも思っている。
9日(金) 中村獅童トークディナーショー 名古屋
朝、隣駅で「日輪の遺産」を見た。
一度家に帰り支度して出かける。
新幹線に乗って名古屋に向かう。
今夜もトークディナーショー。
今夜のお客さまはどんな雰囲気なんだろ。
ライヴである。
10日(土) スジナシ
久しぶりに山本屋へ。
CBCに近いとこのと言ったら、いっつも通ってた山本屋本店だった。
獅「しょっちゅう来てたとこだ」
テ「懐かしいなぁ、○○に泊ってたね」
獅「○○ばっかりだったよ」
テ「俺たちは△△だった」
獅「△△ーー、ははは、そうだそうだ」
テ「なつかしい、御園座来ないでしょ」
獅「来ない来ない、ここも来なくなっちゃった」
テ「トウガラシさ、大きいやつだった」
獅「おおっ」
マネージャー「絶対、『獅童、うどんナウ』って書かれてますよ」
鶴瓶さんのやっているテレビ「スジナシ」に出演すると言うのでついてきた。
局に入ると中島朋子さんの回を録ってるとこだった。
獅「教会なんだよね」
テ「おお、教会で芝居ね」
獅「教会ってさ、普通の人も行くのかな?」
シチュエーションだけ決まっていてあとはなーんにも決まっていない。
楽屋にはいくつかの衣裳が用意されていて、それもどれを着るかは自由。
そばにいる僕らもわくわくする。
そしてスタジオへ。
鶴瓶さんと軽いトークの後、セットが現れ芝居が始まる。
すっげーって思った。
簡単に言うと。
ああやって飛び込んで行くんだと。
そして終了。
鶴「なぁ、すごいなー」
テ「方南町は、ほんっと、びっくりしました」
鶴「ホンマに偶然なんやでーー」
さて、どんな芝居になったのか、放送はたぶん10月4日。
11日(日)
稽古日。
お弟子さんが途切れると寝てしまう。疲れてる感じはある。
疲れてるんじゃないな、休みたい感じなんだな。
身体を休ませたい感覚。
さっきもゴロっと横になってたら耳元で猫の鳴き声がする。
それで目が覚めたら宇太が鳴いている。時計を見ると19時だ。
ああ、ごはんか、ごめんごめん。
12日(月)
稽古日。
昨夜早く寝たので今日は楽かと思いきや、今日は今日で眠い。
ただ、疲れてるんではない感じだ。
ここ半月ばかり気が張っていたんだと思う。
13日(火) 浜松稽古
ちょいとショートコースを回る時間があった。
うれしい時間だ。
14日(水) 獅童丈の誕生日。
出かける支度をしていたらピンポーンと訪ねていらした方がいた。
そのご婦人は、以前長唄を習っていて、師匠が亡くなり稽古をお辞めになったそうな。
楽器はそのままにしてあるが
高齢になってきたので処分しようと決めた。
だけどどうしても捨てることができない。
僕んちの前をよく通るので
お三味線の稽古の音も聴いていらしたらしい。
「もしお役に立つなら私のお三味線をもらっていただけませんか?」
というお申し出だった。
その方の気持ちはとてもよくわかるので、全ていただくことにした。
愛情を持ってお三味線と接していた人との出会いは心地よいものだった。
昨夜、獅童さんのお母さんから電話があった。
明日9月14日は獅童くんの誕生日。
夜、日テレ終わりで10時くらいには家に来るのでいらっしゃいよとのこと。
その時間なら行かれるだろうと快諾した。
親しい人たちが集まってシャンパンでお祝いを。
そのうち
獅「アツシさーん、三味線弾けないの?」
テ「三味線はあるんだけどさ、バチとかが無いんだよ」
獅「ウチになかったっけ?」
テ「どっかにありそうだけどな」
獅「あ、これは?」
おおおお、あったあった。
俺の三味線バッグが出てきた。
昔のままにバチとかが入っている。
以前、ここでお稽古をしていたのだ。
楽器や道具がそのままになっていた。
グラスを持った人たちが僕の前にニコニコ顔で座る。
まずは「どぶねーずみー みたいにーーー♪」
と弾き唄いしてみた。
一番前に座っていた甲本ヒロトさんがこけた。
15日(木)
川越グリーンクロス。
16日(金)
今日は赤坂と表参道に行った。
なんだか久しぶりに街を歩いた。
帰宅してラーメンを食べに行った。
娘は行かなかった。
何をしていたかと言えば、リビングでダンスの稽古。
大丈夫なのか、受験生。
17日(土)
稽古日。
最近、稽古終わりで打ちっぱなしに行くことが多い。
お弟子の稽古の後は自分の稽古。
18日(日)
稽古日。
二日間続けての稽古はめずらしくないが、
昨日今日は来たお弟子さんが多かったのだろう、膝が痛い。
そんなヤワなことではいけないので今夜も打ちっぱなしに。
19日(祝) 志の輔らくご 一刻壱噺 初日
宿題を与えられていた会の初日である。
楽屋にメンバーが揃ってから練習を始める。
考えてきたのは2パターン。
笛と三味線。
練習している間に志の輔師匠到着。
照明から始まって音響のおっけーが出たころには
開演一時間前になっていた。
さてそこから2パターンのうちの1パターンを聴いてもらう。
色々あって決まる。
ほっ。
そして初日の幕が開いた。
出囃子弾いてる時に志の輔さんが僕の耳元で
宿題を出した。
おおっ、ホッとさせないねー。
うーーむ。
師匠は高座へ。
楽屋に戻った僕らは考えた。
数曲できるようにした。
昼公演が終わり、照明のなおしとか色々するとまた本番近くなった。
何曲かご披露するつもりだったが、それはよくなった。
つまり企画が流れた。
そういうことは良くある。
というより、流れることのほうが多い。
とにかく思いついたことを言ってくれる。
それを僕らが考える。
そのことが大事なんだと思う。
僕らも悩むが一番悩んでいるのは師匠なんだから。
そして無事に昼夜公演終了。
スタッフ一同の打ち上げ。
おいしいビールを飲んだ。
20日(火) 志の輔らくご 一刻壱噺
昼過ぎにゴルフのレッスンへ。
久しぶりだ。
うーーん、出来ないことが悔しい。
言われることはわかるがどうして出来ないのか?
帰ってきてシャワー浴びてまたすぐに家を出た。
山手線の中のコマーシャルでパリーミキとゴルフダイジェストのコラボで
ゴルフ用のサングラスを作ったというのをやっていて、あれが欲しいと思っていた。
渋谷のパリーミキへ。
僕は子どもの頃メガネをかけていた。
目が悪かったからだ。
東二の子どもたちでメガネをかけるなんて校内で一人か二人くらいだった。
はずかしくてはずかしくて。
それでも仕方なくかけていた、六年生くらいになるとかけるのが面倒くさくなって、かけたりはずしたりしていたようだ。
高校のころには勉強の時だけかけてたかなぁと思うくらい。
極度の乱視だった。
パリーミキの店員さんが
視力測ってみますか?
というので、度付きサングラスにするつもりはないが検眼をお願いすることにした。
そしたら右目1.0に左目1.0。
めっちゃ見えてるねー。
さらに両眼だと1.2は軽々見えている。
乱視も近視もほとんどないそうだ。
なにっっ!!
どないなってんのや!!
50過ぎで視力ガンガンあがってるやないか!
なんか逆にちょっと恥ずかしい感じやないか!
ま、まぁ、いいわ、ありがたいこっちゃ。
一週間もするとサングラスが出来上がるそうな。
楽しみである。
そして本多劇場へ。
二日目も無事に終わり打ち上げ。
最近見つけたおいしい焼き鳥屋さん。
うまいねうまいねと食べているんだけど今月でおしまいだそうで。
どこかに移転するのだそうだ。
次回の本多の時は移転した新しいお店に行けるかな。
21日(水) 志の輔らくご 一刻壱噺
沖縄に行く日なのだ。
台風15号が来ているのだ。
行くには行くだろうが帰ってこられるかなってなとこなのだ。
まずは羽田空港に行こう、とにかく沖縄に行くつもりなのだ。
チェックインをした。
ついでに帰りの便について空港の人とおしゃべりをしていると、
羽田発13時以降の便は全て欠航することが決まった。
うむ?
ということはこっちから沖縄に行く飛行機がないっていうことやな。
ということは帰ってくる飛行機がないってことやな。
係員と話していると必ずしもそうではないらしいが、ということだった。
ま、そうかもね。
どっかからの飛行機でもいいんだものね。
問題は現在、那覇空港では僕が乗る18時すぎの飛行機の搭乗手続きを一時中断にしていることだ。
7時の段階で手続きを中断してるのかー。
うーーむ。
僕の目の前には5人くらいの係員の人たちがいるがみんな首をかしげるばかり。
そりゃそうだ。
誰もはっきりしたことは言えない、行くかやめるかを決めるのは僕なのだ。
沖縄に行くつもりだったが、今の段階で欠航やら手続き中断になっているなら
無理はしないほうが良いという考えになった。
搭乗手続きしたチケットをキャンセルしてもらうことにした。
そこにいた全員が
「うんうん、そのほうが良いかも」的な微笑を浮かべていた。
その微笑に見送られて搭乗口を出た僕は
なんだか羽田空港においてけぼりにされたような感覚になった。
沖縄のお弟子さんに電話をし段取りをしてもらう。
ガラガラのモノレールに乗って浜松町に引き返す。
なんだかなーー。
んっ、国際線でも見てみよっかな。
国際線が出来るのをずーっと見てきたけど、出来てからも通過するだけで降りたことがない。
国際線を見て自宅に帰り昼寝してお昼前に起きた。
台風情報を見ながら、みんな今夜下北沢にたどりつけるかと思っていた。
浦安の鉄六、鎌倉の鉄七、取手の晴代さん、それぞれがそれぞれの電車を気にしながら早々と出発していた。
鉄六が本多劇場に早々と到着したという。
誰か行ってれば安心だ。
横浜から都内に入ることや常磐線などは難しくなっている。
さてと、僕も家を出た。
副都心線で渋谷へ向かう。
渋谷駅に到着したが、この電車を最後に運転が中止になった。
おおっ、地下鉄も止まったか。
井の頭線のホームに行く。
発車寸前の電車に飛び込む、その電車が発車しようとしたとき、運転中止が決まった。
電車を降りる人たち、目の前のベンチに座った。
しばらく待つつもりだ。
小田急線も止まっている。
井の頭線も止まった。
ということは電車で下北沢には行けなくなったということだ。
19時開演を19時15分開演にして始めるという。
何人のお客様がたどりつけるだろうか?
17時ちょいから18時40分くらいまで待ってみた。
その間にずいぶんと昼寝をした。
よく眠れるものだ、なんて呑気なんだ。
台風は18時30分に東京を通過したらしい。
そろそろ目の前の電車が動くかな。
うーーん。
体力もついたし、なんだか座りつかれた。
よしっと立ち上がる。
ホームから改札に行くと、改札の外にたくさんの人たちが並んでいる。
この改札を出たら二度とホームに戻ることはできないのだ。
外にでる。
震災の時のような人ごみ。
タクシーやバスを待つ長蛇の列。
どっしよっかなーー?
やっぱり歩くことにした。
4キロくらいかなぁ、下北沢まで。
一時間はかけたくないなぁ。
結構風が強い。
雨はやんでいる。
40分で本多劇場に着いた。
鉄七も着いている。
笛の晴代さんはどうしても来ることができなくなり自宅に帰るのも大変な状態らしく、
下北沢在住の美沙輔さんが、たまたま家にいたので来てもらっていた。
観客数は70人くらい。
どうやっていらしたのだろう?
どこからか歩いていらしたのかな?
熱意ですね。
いやいや、来られた方だけが熱意があったわけではない。
貴重なチケットを手に下北沢に向かったがどうしてもたどり着けなかった方たちはたくさんいたはずだ。
ガラガラの本多劇場で志の輔師匠の熱演。
心に残る一夜だった。
終演の時には全ての電車が動き始めていた。
久しぶりの新雪園で打ち上げをし解散。
鉄六と鉄七ともう一杯だけ乾杯しようと店に入る。
六「あっ、ワタクシちょっと発表したいことがあります」
テ「なんだよー、こわいなー」
六「誕生日だ」
テ・七「あっっ!!」
六「すっかり忘れてた」
テ「そうだよ、バッカヤロー。昼間は覚えてて、打ち上げんときに志の輔師匠に
『明日コイツ誕生日なんです』って言おうと思ってたんだぞーー」
9月22日は鉄六の誕生日でなのだ。
台風を乗りきったことですっかりわすれていた。
ウチへ来て14年かぁ。
とにかくグラスワインで乾杯をしてやろー。
22日(木)
久しぶりに中本でラーメン。
23日(祝・金)
お彼岸なのでお墓参りに。
24日(土) 志の輔独演会 うしろやま
新宿から上諏訪まで約2時間半、
志「12時くらいに着いてくれ」
「『8時ちょうどのあずさ2号』って言うんだから、その頃に着くあずさもあるはずだ。」
と言う指令のもと、9時ちょうどのあずさに乗った。
上諏訪で降りるとじきに電話がかかってきた。
ぽ「志のぽんです、御苦労さまです。西口に出てください、待ってますから」
志の輔師匠の車が待っていた。
運転手の志のぽんさんだけが立っている。
テ「よっ」
ぽ「後山まで行きます」
志の輔師匠の座席に座る。
えへへへ。
10キロくらい山道を登ると後山の公民館に着いた。
ここで志の輔師匠の落語会を一年おきにやっている。
楽屋に入ると志の輔師匠がいらしていた。
志「おっ、着いたか」
テ「あっ、びっくりした、松茸採りに行ってるんじゃないんですか?」
志「行ってきたよ、ああ、足が痛い」
テ「松茸採りで?それともゴルフで?」
志「ばかっ、お前じゃないんだからゴルフやったぐらいで足腰が痛くなるかよー」
もともとは9年ほど前、小林工務店の会長さんの
「私の生まれ故郷の人たちに、ぜひ生の落語を聴かせてあげたい」という思いに
志の輔さんが応えたのが始まりだそうだ。
小林会長も素晴らしいが、それに応える志の輔師匠も素敵だ。
人口が70余人しかいないこの村に、昼夜公演で400人以上の人がやってくる。
志「だからさ、お前の三味線も聴かせてあげられたらなって思ったんだよ」
テ「ありがとうございます」
志の太郎「えっ、鉄九郎さん、今日、三味線持ってきてるんですか?」
テ「うん」
太「太鼓とか積んであるんですよ」
テ「おっ、じゃ出囃子も出来るじゃん」
志「そっか、じゃ、鉄九郎を働かそうじゃないか、働けっ!」
ということで出囃子も生になる。
昼の部が終わり昼寝タイム。
夕方になると結構涼しい、っていうか寒い。
夜の部開演。
とにかく師匠の落語を堪能している人たちの顔顔顔。
すばらしい笑顔でござんす。
そして打ち上げ。
松茸小屋というのが隣にありましてね、この季節だけオープンするのです。
松茸づくし。
まずは松茸のお刺身、炙り、酢の物とか天ぷら、土瓶蒸し、茶碗蒸し、
そして松茸のスキヤキ。
これには驚いた。
とにかく一生分の松茸を味わった感が。
ヤンヤヤンヤの大盛り上がりですわ。
そして下山でやんす。
諏訪湖のほとりの旅館「ぬのはん」へ。
志の輔師匠はここで1999年頃から6年くらい落語会をやっていたそうな。
素晴らしい建物。
師匠の部屋で一杯飲む。
これで酔っ払っちゃうんだなーーー。
25日(日) 諏訪湖カントリークラブ
二日酔いだ。
朝食の豪華なことったら。
お迎えが来て出発です。
お弟子さんたちは帰京。
良い天気でありがたかった。
無事に終わり上諏訪駅前の食べ物屋さんに落ち着く。
70代二人と50代二人の計4人。
志「ビールから行くか」
テ「そうですね、やっぱりね」
志「わっ、かつ皿っていいじゃん」
テ「とんかつじゃなくて『かつ皿』ってのがおいしそうです」
志「煮かつってのもいいぞ」
テ「いいですねー、いただきましょ」
N「かつ皿と煮かつを4人前ずつ」
テ「いやいや、一人前で良いですよーー、ひと口ずつしか食べないんですからーー」
K「そりゃそうだ、この歳なんだからー(笑)」
志「いやーー、楽しかったです、とてもよい気分転換になりましたー」
テ「どうしたんですか?」
志「やっぱりそばかなぁ?」
テ「仕上げの食べ物で悩んでるんですね」
志「うどんのもりってうまそうだったよな」
テ「たしかにね、さっきあっちで食べてたお兄さんのがおいしそうでしたねー」
志「だけどラーメンもあるんだよ」
テ「ワンタン麺もいいな」
志「あっ、オムライスもある」
テ「大丈夫ですか?」
志「わっわっ」
テ「へんになってますよ」
志「まずはうどんだな」
テ「わかりました、全部ひとつずつもらいましょ」
もりうどん、ラーメン、もりそば、チャーハンを次々に一人前ずつもらい、みんなで食べる。
なんだかものすごく贅沢している気分。
電車の時間になりお二人とお別れ。
師匠と二人であずさに乗り、あっと言う間に寝てしまった。
気がつくと新宿に着くとこだ。
テ「迎えは?」
志「来ている」
テ「ありがとうございました」
志「気をつけてな」
26日(月)
今日は稽古日。
昨日一昨日と濃い二日間を過ごしてきた。
その日々が嘘のように感じられる。
そのことの繰り返しだ。
刺激があっていいじゃん。
27日(火) 鉄九郎のわがまま vol.12
三七郎さんが特別出演、わがままバンドをバックに唄いあげる。
「たぬき」もやってみた。
囃子入りでやるのは初めてかな、僕。
わがままバンド風にアレンジしてみた。
気の置けない仲間とのライヴは何より気持ちが良い。
ありがたいことだ。
28日(水)
7月の23日あたりだった。
弟弟子の忠史朗くんから電話が入ってて、何かと思ったら
同じく弟弟子の和寿三郎くんが倒れたっていう。
「えっ?!」
なんのことだかわかんなかった。
「マサル(忠史朗)ーっ、何言ってんだよっ!」
電話の向こうの忠史朗くんも困った様子で
自分も良くわからないんだ、家元から電話があってアツシさんに伝えてくれって言われたんだと言う。
なんで倒れたか、今どうなってるのかがわからない。
とにかく大変なことが起きたってことだった。
すぐそのあとに家元から電話があり
「もうだめなんだよ」って、家元が声を詰まらせて僕に言った。
なんだかわからなかったけど、何が起きたんですか?って聞きたかったけど、言える感じがなくて、
家元が「もうダメだ」って言うんだから、和寿三郎に何があったかはわからないが倒れてしまい、もう命が亡くなるんだってことだと。
今、家元は自分の子どもが先に逝ってしまうことを嘆くこともできずに僕に告げているんだってことだと。
家「お前どこにいるんだ?」
テ「長野です」
家「そっか、じゃ会えないな、集中治療室に入ってしまうから、もう会えないぞ」
テ「はい」
そして7月30日に和寿三郎くんは亡くなった。
家元の言葉どおり会えなかった。
41歳。
忠五郎家元の下に鉄九郎・忠史朗・忠七郎・忠次郎・忠一郎・和寿三郎・直也という序列。
どう考えたって順番がおかしい。
誰が亡くなっても困るが和寿三郎が亡くなることは一番いけないことだ。
僕はいまだに和寿三郎が亡くなったとの実感はない。
たぶん多くの仲間がそうであろう。
でもどこかで一度、区切りをつけなくてはいけない。
そう考えて、家元が発起人となり、本日
「松永和寿三郎お別れの会」を、あいつが住んでいた浅草で取り行った。
200人近い出席者、和寿三郎のことを嫌いなやつはいないというくらい長唄界はもちろんのこと
邦楽界や芸界で可愛がられた。
司会をする自分が奇妙な感覚だった。
いったい何をしてるんだろーって。
29日(木)
今日は今月最後の稽古日。
今月もおつかれさん。
30日(金) 越中座 2011 江戸公演
東松山に行ってきた。
良い天気だった。
帰宅して支度して出かけた。
新橋で鉄六と鉄七と待ち合わせをしてニッショーホールへ。
志の輔座長の越中座の公演。
一年ぶり。
あっ、昨年も9月30日だった。
なぜ覚えているかと言えば、越中座の公演の日にタバコをやめたからである。
そしてその日が9月30日だったと覚えているからである。
おーー、禁煙して丸一年経ったんだ。
もともと禁煙ではないけどね、止めたんだから絶煙ですな。
今ではタバコを吸っていたと思うだけで頭痛がするのだ。
チャンピックスの効き目はスゴイ。
志の輔さんは具合が悪い。
風邪のようだ。
でも公演はとても楽しかったし温かかった。
来年も楽しみだ。
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